委ねることと、手を離すことは同じではない|The complexity, tensions and struggles in developing learning communities throughout a Sport Education season

2015年〜2019年

体育の指導モデルとしてのスポーツ教育(Sport Education, 以下SE)は、シーズン・所属・公式競技・クライマックスイベント・記録・祝祭という6つの要素を通して、子どもたちに「本物のスポーツ経験」を届けるものとして広く支持されてきた。しかし、そのSEを実際に動かしてみたときに現場で何が起きるのか——うまくいった話ではなく、混乱し、もつれ、教師が失敗する場面の記録は、驚くほど少ない。

本稿で紹介するのは、Carla Luguettiら(ヴィクトリア大学/サンパウロ大学/リムリック大学)が European Physical Education Review 誌の2019年第25巻第4号に発表した研究である。ブラジルの大学で行われた13週間の器械運動(Artistic Gymnastics)SEシーズンを、教員自身が当事者として記録し、「複雑さ・緊張・葛藤(complexity, tensions and struggles)」をあえて主題に据えた行為研究(アクションリサーチ)である。

研究の背景・目的

SEが「本物のスポーツ経験」を提供できる根拠として、これまでよく引かれてきたのが状況的学習論(Lave & Wenger, 1991)である。学習を個人の頭の中の出来事ではなく、共同体への参加の深まりとして捉えるこの見方では、正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation, LPP)が中心概念になる。新参者は周辺から参加を始め、次第に共同体の中心的な実践へと移動していく。KirkとMacDonald(1998)、KirkとKinchin(2003)、Tannehillら(2015)は、SEの6つの要素がまさに地域スポーツの学習共同体を教室に再現するものだと論じてきた。

ただし著者らが指摘するのは、これらが理論的な「可能性」の議論にとどまっており、実際に学習共同体がどう立ち上がる(あるいは立ち上がらない)のかを示す実証データが乏しいという点である。そこで本研究は、Cook(2009)の言う「messy area(混沌とした領域)」——既知と未知のあいだ、明示知と暗黙知のあいだの界面——にあえて踏み込み、教員と学生の双方が経験した複雑さ・緊張・葛藤を描き出すことを目的とした。

方法

ブラジルの公立大学スポーツ学部3年次の学生33名(女性9名・男性24名、20〜39歳)教員4名が参加した。学生はSEも器械運動も未経験である。器械運動の授業は60時間・4か月、週1回3時間で構成され、うち13週がSEシーズンにあてられた。

教員4名の配置が本研究の要である。第一著者のカルラはSEの経験は豊富だが器械運動は未経験。プリとディエゴは器械運動の指導・審判経験が7年以上あるがSEは未経験。ミシェレも器械運動の指導経験をもつ。さらにSE研究の専門家であるアン(リムリック大学)が「クリティカル・フレンド」としてシーズンを通じて随時助言した。つまり「教える側」もまた、互いに未知の領域を抱えた学習者だった。

学生は6チーム(5〜6名)に分かれ、選手の役割に加えてコーチ・マネージャー・ジャーナリスト・審判・振付師のいずれか1つを担った。第9〜12週に予選・個人総合決勝・種目別決勝(ゆか・平均台・跳馬)、第13週にチーム決勝と表彰イベントを実施した。

データは週次で収集され、(a) 毎授業後の教員グループ会議(音声記録・計205ページ)、(b) 学生の振り返り日誌(計225件)、(c) 主担当教員のフィールドノート(24ページ)、(d) Facebookの投稿、(e) 学生フォーカスグループ(計77ページ)の5種類にわたる。分析は帰納的コーディングと継続的比較法により行われ、結果はヴィネット(場面の物語的記述)として提示されている。

結果

1.教員のあいだに生まれた信頼と相互依存

最初の課題は、器械運動の採点規定(code of points)をどう扱うかだった。国際体操連盟(FIG)の公式採点規定は、演技を客観的に評価し、公認大会の採点を標準化するための高度に専門的な文書である。カルラは「これは学生には難しすぎるし、私にも理解できない」と率直に漏らしている。

プリが提案したのは、「お絵かき競技会」で採点の仕組みを体験させるという方法だった。テーマを決め、難度の基準と価値点を設定し、線のブレなどの欠点を10点から減点していく。この体験を器械運動の採点に接続する。こうして教員と学生が採点規定を共同で作り上げた

ところが第5回授業でカルラが一人で授業に臨んだとき、学生の質問に答えられない事態が起きる。平均台の高さ、跳馬の難度、芸術性の構成要件——「もし私が審判だったら、この大会は成立しない」とフィールドノートに書いている。学生のジョアンも「ディエゴとプリがいなくて、カルラだけでは私たちのニーズに応えられず、私たちは孤児(orphans)のようだった」と記した。

カルラはその後メール・WhatsApp・電話・Skypeでプリとディエゴに連絡を取り、3人で採点規定を読み直して回答を用意し、次の授業で学生に返した。第8回授業後の会議では、当初「競争を教育目的に使うことなどできない」と考えていたプリが、こう述べている——「競争を生きなければ、1万回の講義も役に立たない」。カルラが器械運動を教わり、プリとディエゴがSEを教わるという相互教授の関係が、13週を通じて維持された。

2.学生が恐怖を乗り越えるためにつくった安全な環境

前半6回の授業で学生の日誌に繰り返し現れたのは「怖い」という語である。「仲間の前で動きをやってみせるのが居心地悪かった」(ベアトリス、第2回)。「私の経験は球技ばかりで、器械運動の授業からはいつも逃げてきた」(アントニオ、第1回)。

この恐怖を和らげたのは教員ではなく仲間だった。第3回授業までにピアコーチを中心とした支え合いが生まれ、やがてチーム内の水平な関係へと広がる。振付師のマイアラとジャーナリストのベアトリスは、互いの「巨大な限界」と「恐怖」を補い合った。「彼女は技術的には大して助けてくれないけれど、限界や恐れや不安を乗り越えようとする意志で私を励ましてくれる——人生の教訓だ」(ベアトリス、第3回)。

コーチのイヴァナは第2回授業の日誌にこう書いている——「動機づける挑戦と、意欲をくじき傷つける挑戦のあいだにある、きわめて細い線」を見極めることが自分の課題だ、と。

一方で、2名の学生は最後まで選手として競技することを選ばず、運営役割に専念した。マウロは「選手として自分をさらけ出すことに違和感があった。しかし運営面から見れば、私たちは十分に組織された大会を作ったし、選手として出場しないことでチームに損害を与えてはいない。……その決断を先生方が広く尊重してくださったことに感謝する」(第9回)と記している。

3.「期待と現実」——関与の温度差と教員の苛立ち

授業は民主的・共同構築型に設計されており、学生には相応の責任感と自律性が求められた。しかし学生の関与の度合いには大きな差が生じる。

ジャーナリストのベアトリスは第3回の日誌に「頭の中に千と一つのアイデアが湧いていたのに、他の5人のジャーナリストが話しはじめた瞬間、私の熱は下がっていった。彼らは最も楽な、最小の労力で済むことをやりたがった——期待と現実だ!」と書いている。

第4回授業後の教員会議ではプリがこう報告する——「練習の時間を与えたら『何を練習するの?』と聞かれた。……ジゼルのチームは本当にチームだった。イヴァナのチームなども練習していたが、すぐに解散してしまった」。第7回の会議ではカルラが「マネージャーたちが責任を果たしていない」と述べ、ディエゴは「君たちはすべてに責任がある、器具も審判もすべて考える必要がある、と伝えた」と応じている。教員の会議は、次第に学生の低関与への苛立ちを語る場になっていった。

他方で、役割に手ごたえを得た学生もいた。審判を務めたヴィクトルは「大会を遅延なく進行させるうえで決定的な役割を果たした。この授業は学生としての私の主体性(protagonism)の到達点だった」(第9回)と書いている。

4.第11回授業の亀裂——二つの学習共同体への分裂

本研究で最も重い場面が、第11回授業で起きる。国内公認審判であるディエゴが審判として採点に加わり、その採点が学生審判たちの採点を事実上無効化してしまったのである。学生審判のペドロはディエゴに詰め寄った——「では僕たち審判は何の役にも立たないということですか?」

その日の教員会議で、カルラは自ら言葉にしている。「私たちがしたことが怖い。……今日、私たちは学生から力を奪ってしまった(disempowered)。残念だけれど、あれはすべきではなかった」。ベアトリスも日誌に「ディエゴはそれまでの採点に参加していなかったのに、昨日は彼の採点だけが採用された。大会の最初から責任を担ってきた審判たちの重みを奪うことになるので、正しいとは思えない」と書いた。

この一件が明らかにしたのは、教員と学生は一つの学習共同体ではなかったという事実である。学生は採点規定の共同策定と大会運営を通じて自律的な共同体になっていた。教員はその外側にいた。結局、教員たちは最終大会で審判を務めないことを決め、観察に回り、意思決定は学生だけで行われた。13週間かけて生まれたのは「一つの共同体」ではなく、「二つの共同体」だった。

考察のポイント

著者らは考察を3つに整理している。

第一に、器械運動という「個人・技術系種目」をSEで扱うことの難しさである。SE研究の蓄積は圧倒的に球技に偏っており、体操・シンクロ・トランポリンのようなアクロバティック系種目の知見は乏しい。この種目群では「動きの質」そのものが評価対象になるため、採点規定の学習と審判養成に膨大な時間を要する。本研究でプレシーズンが8週間に及んだのはそのためであり、それを支えたのはプリとディエゴの7年以上の実務経験だった。

第二に、三層の緊張——教員間、学生間、そして教員と学生のあいだ——である。教員間の緊張は相互の信頼・敬意・支援によって乗り越えられた。学生間の関与の差は、状況的学習論の枠組みでは「周辺から中心への移動」として理解できる。選手として競技しなかった学生も、運営役割によって共同体内の位置を変えながら参加を続けた(実際、大会運営で最も有能だった2名は選手として出場していない)。

第三に、教員と学生が最後まで一つにならなかった理由である。著者らはRogoffらの「オープン・クラスルーム」概念を引き、大人と子どもが敵対者ではなくパートナーである関係を目指したと述べる。しかし学生はそうした授業を経験したことがなかった。ペドロは最後にこう語っている——「先生方のこの教え方は、私たちのコースで一度も経験したことがなかった。最初は、ほとんどの先生は何をすべきか指示するので、私たちは先生方が変だと思っていた」。教員は伝統的な教師−生徒の権力関係そのものを学生と話し合わなかった。この未処理の前提が、第11回の亀裂として噴き出した。

今後の方向として著者らは、同じ集団で2シーズン目を行うこと、およびSEを批判的・文化的教育モデル(カルチュラル・スタディーズやアクティビスト的アプローチ)と組み合わせて、権力関係そのものを教材化することを提案している。

まとめ

  • ブラジルの大学で行われた13週間の器械運動SEシーズンを、教員4名が当事者として記録した行為研究である。
  • 教員間には信頼と相互依存に基づく学習共同体が成立し、SE未経験者と器械運動未経験者が互いに教え合った。
  • 学生は仲間の支えによって恐怖を乗り越え、運営役割を通じて主体性を獲得した学生もいた一方、関与の温度差は最後まで解消しなかった。
  • 第11回授業で教員が審判として介入し学生の意思決定を無効化したことで、教員と学生が一つの共同体ではないことが露呈した。
  • 著者らは「うまくいった話」ではなく混沌(messiness)を正面から記述することの研究的価値を主張している。

専門家コメント

私がこの論文を読みながら赤ペンで最も多く書き込んだのは、称賛でも共感でもなく、疑問だった。順に書いていきたい。

まず採点規定の扱いである。教員たちは学生と採点規定を「共同策定」したと述べているが、その出発点はFIGの公式採点規定だった。私はここに「いきなり公式に寄せすぎている。学習者にとって難度が高い」と書き込んだ。器械運動を初めて経験する学生に対して、国際競技の評価枠組みから降りてくる設計は、順序が逆ではないか。プリの「お絵かき競技会」は見事な足場かけだが、その足場が支えているのは「公式規定の理解」であって、「自分たちにとって何が良い演技かを決める経験」ではない。第5回授業でカルラが学生の質問に答えられず、学生が自分たちを「孤児」と呼んだ場面は、教材の難度設定の失敗が教員の指導不能として現れたものだと私は読む。

次に、第8回の教員会議の場面である。フェリペの「今日、体操選手がなぜショートパンツを履くのか分かったよ」という発言を、教員たちは成果として喜び合っている。私はここに「本質を左右するところではない」「教師が伝えようとして、ひとりよがりになっている」と書いた。膝が見えないと審判が判定できない——それは確かに競技を「生きた」からこそ得られる知識だ。だが、13週間かけて器械運動をSEで扱った成果として教員が真っ先に持ち出す事例が、これでよいのだろうか。この場面の教員たちは、学生の学びを見ているというより、モデルが機能していることの証拠を探しているように私には見える。教員が「見まもる」べき局面で、教員自身の物語を語ってしまっている。

第4回授業以降の記述には、より率直に書き込んだ。「イヴァナのチームなども練習していたが、すぐに解散してしまった」という報告に対して、私は「授業規律が崩壊している」と書いた。そして「授業は民主的で共同構築型となるよう設計されており、その結果、ある程度の責任感が求められていた」という一文には「モチベーションの責任を生徒にまかせすぎた」と書いた。さらにディエゴの「君たちはすべてに責任がある。器具も審判もすべて考える必要がある」という発言には、「指導性を放棄している」とだけ記した。

ここが本論文に対する私の最大の疑問である。「委ねる」ことと「手を離す」ことは、まったく別の行為だ。学習者中心の授業とは、教師が指導性を手放すことではなく、指導性の使いどころを移動させることのはずである。生徒に責任を渡した瞬間に教師の仕事が終わるのなら、教師は要らない。この研究の教員たちは、渡すところまでは丁寧にやったが、渡したあとに何が起きているかを見て手を入れる、という指導の第二段階を用意していなかった。だから「関与しない学生」が現れたときに、教員会議で語られたのは打ち手ではなく苛立ちだった。論文はこれを「学生の関与の温度差」と記述するが、私はこれを教師の設計の問題として読みたい。

役割配置についても書き込んだ。「役割の割りあての変化と、気もちの混乱」——シーズン途中で役割の重みや意味が変わっていくのに、その変化を学生と一緒に確かめ直す場が用意されていない。そして選手として競技しなかった学生の扱いである。論文は、彼らが運営役割で不可欠な貢献をしたと肯定的に描く。実際に大会運営で最も有能だった2名は選手として出場していない。だが私はここに「逃げ道になっている」という趣旨のメモを残した。運営役割は、恐怖に向き合わないための正当な口実にもなりうる。もちろん強制すべきだと言いたいのではない。ただ、「選ばなかった」のか「選べなかった」のかを区別する記述が論文にはない。状況的学習論の「周辺参加」という語は、この区別を曖昧にしたまま肯定してしまう危うさをもっている。マウロが「私は正しい選択をしたと思う」と書いたその一文を、教育的成果として読むのか、それとも学習機会の断念として読むのか。私は後者の可能性も併記すべきだったと思う。

そのうえで、本論文の価値がどこにあるかも書いておきたい。第11回授業の記述である。ディエゴが審判として介入し、学生審判の採点を無効化した。ペドロが「では僕たち審判は何の役にも立たないということですか」と詰め寄った。カルラは会議で「私たちは学生から力を奪ってしまった」と認めた。私はこの箇所に「教師が生徒の意思決定を否定してしまった」と書き、そのあと数ページにわたって続く記述には「(この対立を)耐える必要があった」と書いた。

この対立が最終大会まで解決されなかったこと、そして教員が最終大会で審判を降りるという形でしか収拾できなかったこと——ここに、この研究の最も誠実な部分がある。普通、こういう場面は論文から消える。「教員が介入して大会は円滑に進行した」と一行で書けば済むところを、著者らは自分たちの失敗として13ページにわたって残した。Cook(2009)の言う「messの目的は、実践の変容につながる新しい知の構築へと転回することにある」という主張を、著者らは自分たちの傷をもって実演している。私が体育科教育学の論文に求めたいのは、まさにこの種の記述である。

最後に、著者らが今後の方向として挙げた「批判的・文化的教育モデル、とりわけアクティビスト的アプローチとの組み合わせ」に、私は赤線を引いた。これは正しい方向だと思う。第11回の亀裂の原因は、ディエゴの判断ミスではない。教員と学生が「教える者と教わる者」という関係を一度も言葉にしないまま、共同体ごっこを13週間続けたことにある。ペドロの「最初は先生方が変だと思っていた」という発言が、そのすべてを語っている。権力関係を教材にしないまま学習者中心を掲げると、教師は指導性を放棄する方向にしか動けない。私自身が越境や協同学習を扱うときに何度も突き当たってきた壁が、この論文には正直に記録されている。

示唆を一つに絞るなら、こうなる。生徒に委ねる授業を設計するとき、教師が最初に生徒と話し合うべきなのは、役割分担でもルールでもなく、「私たちはこれからどういう関係でこの授業をやるのか」という関係そのものである。それを飛ばした共同体は、第11回授業のような一撃で、あっけなく二つに割れる。


元論文情報

  • タイトル:The complexity, tensions and struggles in developing learning communities throughout a Sport Education season
  • 著者:Carla Luguetti, Priscila Lopes, Diego Rodrigues de Souza Sobrinho, Michele Viviene Carbinatto, Ann MacPhail
  • 掲載誌:European Physical Education Review, 25(4), 1075–1092
  • 発行年:2019年
  • DOI:10.1177/1356336X18802285
  • URL:https://hdl.handle.net/10344/8328(University of Limerick 機関リポジトリ/CC BY-NC-SA)

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