本記事では、Oleg A. Sinelnikov(アラバマ大学)による研究論文「Sport Education for Teachers: Professional Development When Introducing a Novel Curriculum Model」(European Physical Education Review誌、2009年)を紹介します。ロシアの体育教師2名がスポーツ教育モデルを初めて導入する過程に、研究者が長期にわたって学校に入り込んで伴走した、現場密着型(on-site)の教員研修の記録です。前回紹介したGuskey(2002)の「教師の変容のモデル」を、体育の現場で検証した研究とも読めます。
研究の背景・目的
単発の講習会や「一回きり」の研修が教師の実践に持続的な影響を与えにくいことは、すでに広く合意されています。体育の分野でも、研修は一貫性や現場との関連性、系統性を欠いていると指摘されてきました。とりわけロシアでは、体育教師の専門性開発への財政的支援が優先されておらず、研修は「競技専門知識」「体育の指導法」「大学等が提供するテーマ別講義」の必修講義を受講する形式に留まっており、脱文脈的で教える現実から切り離されていると著者は述べます。
そこで本研究は、ロシアの体育教師がスポーツ教育モデルを学び実施していく過程に密着した研修プログラムを記述し、その有効性を評価することを目的としています。評価は、研修で提示されたスポーツ教育の諸特徴が、実際の授業でどのように実行されたかを照合することで行われました。
方法
対象は、ロシア中央黒土地域の小都市にある公立学校の体育教師2名です。1人は教職27年の熟練教師(ロシア連邦名誉教師の称号保持者)、もう1人は教職3年の若手教師で、それぞれ6年生の学級を担当しました。両者ともバスケットボールを教材に選び、週3回45分の授業を6週間にわたって実施しています。
研修プログラムは3段階で構成されました。
- スポーツ教育モデルの利点・主要な特徴・実施方法を解説したロシア語の資料を事前配布する
- 2日間のワークショップで、研究者と教師が共同でシーズン計画と指導案を作成する
- 研究者が週2回の授業を観察し、授業前のブリーフィングと授業後のデブリーフィングを継続的に行う
デブリーフィングにはTsangaridou & O’Sullivan(1994)の省察枠組み(技術的・状況的・感受的の3水準/記述・正当化・批判の3段階)が用いられました。データは研究者のログ、非公式の対話、ブリーフィング・デブリーフィングの記録、各教師7回ずつの半構造化インタビュー、指導案・シーズン計画で、分析はロシア語のまま行われ、生成されたテーマのみが英訳されています。
結果:4つのテーマ
1. 訓練段階における示範授業の必要性
資料を読み、2日間のワークショップを受けたあとでも、教師たちは「実際の授業を見る必要がある」と訴えました。熟練教師の言葉が象徴的です——「授業の組織の絵が、どうしても全部は見えない。見る必要がある。私たちの言い方では『語るな、見せろ』だ。そうして初めて概念が分かり、面白くなる」。直接指導が支配的なロシアの体育において、子どもがリーダーの役割を担う授業は、言葉では像を結ばなかったのです。
2. モデルとの適合性の確認
教師たちは、自分の授業がモデルに沿っているかを繰り返し確認したがりました。「私のやり方がそれでいいのか、それだけ言ってくれ」。この確認要求はシーズン初期に集中し、授業を重ねるにつれて減っていきます。やがて教師は自分自身で授業とモデルの要点を省察できるようになり、若手教師は「授業をやってみて分かったが、テストの中身は何でもいい。大事なのはコーチ役の生徒が主導権をとり、鉛筆を持って記録する準備ができていたことだ」と語るようになりました。
3. 「統制を手放す」ことの難しさ
最も抵抗が大きかったのがこれです。とくに熟練教師は、子どもに運営や指導の責任を委ねることに強い懸念を示しました。その本質は、体育館の統制を手放すことへの抵抗でした——「難しいのは組織だ。従来の教え方のほうが楽だ。私が指揮者で、私の言うとおりになる。今度は彼ら(子ども)が決める」。実際、初期の授業では、コーチ役の生徒を集めて教師自身が課題を説明してしまい、結果としてコーチの出番がなくなる場面も見られました。学習が生徒主導で進む体育館の様子は、彼らの目には「混沌だ。おかゆだ」と映っていたのです。
ところが季節が進むにつれ、評価は反転します。「コーチたちが、できない仲間を助けに文字どおり飛んでいって説明を始める。コーチの役を生きているということだ。授業外の練習課題まで出し始めた」(若手教師)。「素晴らしい。子どもへの説明が減った。コーチに説明すれば彼らがやってくれる。私は見て回ってフィードバックするだけでいい」(熟練教師)。そして「まるで演劇の舞台のようだ。それぞれが自分の役をもっている」という言葉に至ります。
4. 教師どうしの協同
2人の教師は、求められたわけでもないのに互いの授業を見合い、その後に自然発生的な議論や省察、共有が生まれました。若手教師は熟練教師の授業を見て「分かった。コーチはチームに戻ったら教師なんだ」と語っています。得点表は若手が、記録係用の携帯ボードは熟練教師が作るなど役割分担も生まれ、「我々は同じことをやっている、一緒にやれる」という共有された目標意識が形成されました。一方で、審判に笛を使わせるかどうかなど判断が分かれた点もあり、それぞれのやり方が各学級でうまく機能しています。
考察のポイント
著者はBirman et al.(2000)の枠組み(構造的特徴=形態・期間・参加/中核的特徴=内容の焦点・能動的学習・一貫性)で議論を整理します。本研究の研修の中心的な改革要素は、研修提供者が長期にわたって学校現場に居続けたことでした。これにより初期訓練だけでなく、授業の系統的観察と継続的なフィードバック・相談が可能になりました。同一校・同一学年の教師が「集団で参加」したことも、知識の共有・仲間による支え・省察の促進をもたらしています。
そしてもっとも重要なのが、Guskey(1986, 2002)の教師の変容のモデルによる説明です。教師たちは、生徒の学習における望ましい成果の証拠を目にするまで、体育館の統制を手放せませんでした。証拠を得てはじめて、彼らは別の指導のあり方を試み、生徒とのパートナーシップを築いていったのです。これは、体育館の秩序についての彼ら自身の従来の信念が書き換えられた過程にほかなりません。さらに著者は、教職経験が長い教師ほど、この変容が困難になりうることを示唆しています。
また、Ko et al.(2006)が指摘する「ウォッシュアウト」(計画段階から実施段階のあいだで研修内容が抜け落ちる現象)が、継続的なフィードバックと省察によって最小化されたことも成果として挙げられています。他方で限界も明示されており、この方式は研修提供者・教師双方に多大な時間を要求するため、参加できる教師と学校の数がどうしても限られます。
現場への示唆
日本の体育科教育の文脈に引き寄せると、示唆は明確です。新しい授業モデルを広めたいとき、私たちはつい資料の充実や研修会の質に力を注ぎます。しかし本研究が示すのは、(1) 教師は「聞く」だけでは像を結べず、実際の授業を見る必要があること、(2) 導入初期には「これで合っているか」を確認できる相手が要ること、(3) 教師が統制を手放せるようになるのは、子どもが実際に動き出すのを見たあとであること、の3点です。単発の研修会ではなく、伴走者を置いた継続的な支援設計こそが鍵になります。
まとめ
本研究は、「内側からの変化を促す(facilitating a change from within)」という一節に集約されます。ある場所で創られた知は、そのまま別の場所に移転するわけではありません。現場に根ざし、文脈化され、能動的な学習を伴う研修であってはじめて、教師は新しいカリキュラム・指導モデルを実行できるようになる——スポーツ教育モデルの導入を考える人にとって、実務的にも理論的にも参照価値の高い一本です。
専門家コメント
まず、研修の手続きそのものが面白い。デブリーフィングを「記述」「正当化」「批判」という3つの水準に分けて進める省察的枠組みは、思いつきで感想を交換する事後検討会とは明確に異なる。加えて、スポーツ教育ベンチマーク観察ツールによって、計画と実際の指導がモデルに沿っているかを確認する手続きが組み込まれている。研修を「やった/やらない」ではなく「モデルに照らしてどうだったか」で扱えるようにしている点は、日本の校内研究にもそのまま持ち込める設計である。
本研究が描いているのは、突き詰めれば経験による学習である。教師たちは資料も読み、2日間のワークショップも受けた。それでもなお「言葉で説明するのではなく、見せてほしい」と言った。示範授業の参観と、公平なチーム編成を体験するドラフト手続きのシミュレーションが実際に有用であったという記述は重い。理論の説明が無駄だったのではない。アイデアとしては確かに有用だったが、それだけでは像を結ばなかったということである。この順序は、Guskey(2002)が示した「見たものと、自分で行ったものを信じる」という原則と正確に重なっている。
「コントロールを手放す」ことの難しさの記述で、私がもっとも重要だと考えるのは、この局面が教師に葛藤を生じさせているという点である。生徒コーチが活動を主導し始めたとき、厳格な秩序に慣れた教師の目に体育館は「カオスだ。ごちゃごちゃしている」と映る。しかし同時に、コーチ役の子どもたちが仲間のもとへ駆け寄り熱心に説明する姿も見えている。自分が築いてきた授業の秩序と、目の前で起きている望ましい出来事とが噛み合わない。この居心地の悪さこそが、教師の学びの起点になっているのだと思う。実際、第3回の授業では教師が全員を止めて自ら課題を説明してしまい、コーチの出番を自分で奪うという揺り戻しも記録されている。
そして葛藤は、時間の経過とともに解消されていく。子どもたちが役割に習熟し、教師の側も子どもが何を考えているのかを見て取れるようになるからである。最初はカオスに感じる——その感覚が変わるまで待てるかどうかが、モデルの導入における最大の分岐点なのだろう。研修の伴走者に求められる仕事の大半は、この待つ時間を教師が一人で耐えなくてよいようにすることだと言ってもよい。
そして教師の語りが、明らかに情動的な反応を伴っている点にも注目したい。「素晴らしい!」「本当に組織力を発揮している」「その素晴らしさを言葉で表現できないほどだ」——これらは冷静な効果測定の言葉ではなく、専門性が充足された経験の表明である。この満足感が次の実践を駆動していく。スポーツ教育モデルのシーズン、チームへの所属、クライマックス・イベント、祭典性といった特徴が、子どもだけでなく教師の側にも作用していることが読み取れる。
協同学習のテーマが示しているのは、要するに教師同士が協力し合っているということである。2人は求められてもいないのに互いの授業を見合い、笛を使うか否かのような細部を議論し、得点表と携帯用スコアボードというかたちで役割を分担した。研修の効果を、個人が獲得した知識としてではなく、コミュニティにおける実践の変容として捉え直す必要がある。
実務的にもっとも重要なのはフォローアップである。計画段階から実施段階のあいだで研修内容が抜け落ちる「ウォッシュアウト」が、継続的なブリーフィング・デブリーフィングによって最小限に抑えられたという知見は、研修設計の核心を突いている。裏を返せば、実践を支えることこそが研究者の役割だということでもある。資料を渡して講義をする役ではなく、現場に居続けて「これで合っている」と応答し続ける役である。これは時間的コストが大きく、参加できる学校が限られるという限界を著者自身も認めているが、それでもこの方向にしか答えはないように思う。
最後に、本研究は越境の議論と同じ構造をもっていると感じた。大学(研究)と学校(実践)という異なる文脈が交わる場に研究者が長期間身を置き、そこで教師の実践が組み替えられていく。そのとき決定的なのは、教師の主体性をどう取り扱うかである。示範授業を見せ、確認に応じ、成果が見えるまで支え続けるという手続きは、教師を変えられる対象として扱うのではなく、判断の主体として扱う姿勢の表れでもある。経験ある教師ほど変容が困難になりうるという知見も、彼らが要求の厳しい環境のなかで築き上げてきた実践の重みを考えれば当然のことであり、それを軽んじる研修は機能しない。
元論文情報
- タイトル: Sport Education for Teachers: Professional Development When Introducing a Novel Curriculum Model
- 著者: Oleg A. Sinelnikov
- 掲載誌: European Physical Education Review, 15(1), 91–114
- 発行年: 2009
- DOI: 10.1177/1356336X09105213
- URL: https://doi.org/10.1177/1356336X09105213


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