どこまで教師が担い、どこから子どもに開くか|中学校保健体育の研究大会での講演から

講演・研修の記録

子どもに任せるとは、何を任せることなのか。

2026年10月21日、中学校保健体育の研究大会で講演の機会をいただきました。午前に研究授業を参観し、午後に「生徒が主体的に学ぶ力を育成する授業づくり ― 成人学習理論の自己決定型学習の考え方を応用して」という題でお話ししました。公開授業はバレーボール単元の1時間で、その学級とは1学期から単元づくりをご一緒してきました。

当日お配りした資料は、この記事の後半に置いています。どなたでもダウンロードできます。

理論は「正解の処方箋」ではなく、レンズである

はじめにお伝えしたのは、理論の使い方でした。その前に一つ、前提があります。私たちは、同じ場面を見ていても、同じようには見ていません。誰もが、それぞれの見方をすでに持っています。理論とは、その見方をいったん揃えてみようとする試みです。

理論は、それを当てはめれば急に何かがよくなる万能薬ではありません。物事の見方、つまりレンズです。無色透明のレンズというものは人間にはありません。青いレンズをかけていれば青が見えにくくなり、赤に替えれば今度は赤が見えにくくなる代わりに青が見えるようになります。どのレンズも正しく、どのレンズも少しずつ間違っている。だいじなのは、自分がいまどのレンズを通して子どもを見ているかを自覚することだと思います。

レンズによって、同じ風景の見え方が変わる。無色透明のレンズというものはない。

たとえば、チームで練習メニューを話し合っていて、なかなか動き出さない場面。効率のレンズで見れば「話し合いが長い、時間のロスだ」と見えます。自己決定のレンズで見れば「自分たちで決めようとしている、少し手伝おうか」と見えます。同じ場面でも、見え方が変われば次の一手が変わります。

大人は、どう学んでいるか

成人学習の研究は、もともと「忘れ去られた人たち」への関心から始まりました。学校を出た大人の学びに、研究の光がほとんど当たっていなかったからです。

地域のバレーボールチームを思い浮かべてみてください。何を目指すか、何を練習するか、誰に習うか、どうやるか、どう確かめるか。そのすべてを、やっている本人たちが決めています。私自身も同じで、筋トレに特別な目的はありません。重たいものを持ち上げたい、という欲求だけです。それでも、動画を見て、本で作用点と反作用点の関係を調べ、何を食べるか、どれだけ寝るかまで調べています。評価するのも自分です。これが、学校を出たあとの学び方、いわば野生の学びです。

学校の外の学びでは、学びの要素のほぼすべてを学習者自身が決めている。

大事なのは、技能の高い低いとは関係がないということです。世界にはとんでもない重量を挙げる人がいますが、勝った負けたが重要かというと、そうでもありません。何かを得るために学ぶのではなく、続けるために学ぶ。自分が何者かであるために学ぶ。人は、自分のアイデンティティを強めてくれるものに、いちばん喜びを感じるのだと思います。

「実現」ではなく「接近」

ここで一つ、強い言い方をしました。「主体的な学びの実現」という言い方を、私は正確ではないと思っています。学校に、完全な主体的な学びは原理的に存在しないからです。学習指導要領があり、安全の制約があり、時間と人数の制約がある。何より、自分で決められるようになるために教える、という矛盾を学校は抱えています。

ですから目指すのは、実現ではなく接近です。体育のゴール地点を、自分で運動やスポーツを学び続ける大人の姿に置く。そこへ向けて、自己決定性を少しずつ高めていく環境をつくる。そういう設計の話になります。

体育のゴール地点を、自分で運動・スポーツを学び続ける大人の姿に置く。

他者決定型の学習は「悪」ではない ― 使い方と量の問題

教師が決めて進める学習には、はっきりした強みがあります。初めて学ぶ生徒の不安を減らせること。知識や技能を効率よく身につけられること。そして、放っておけば一生出会わなかったはずの文化に出会わせられること。

三つめは、強みというより、もっと大きな働きだと思っています。放っておけば絶対に起こらなかったはずのことを、他人が関与することで起こしてしまう。可能性の分岐を、人の手でつくり出す働きです。文字を覚えることも、先人たちが積み上げてきた知恵や経験に触れることも、自分ひとりの好奇心からは、まず始まりません。誰かが教えるから、そこに道ができる。講演では「奇跡のような機能」と言いました。言い過ぎだとは思っていません。これは学校が持っている、いちばん大きな力です。

大学で担当していた運動の授業に、走るという経験をほとんどしてこなかった留学生がいました。体育が必修として位置づいていない国もあります。その学生は最初、十分も走れませんでした。速くもなければ、きれいなフォームでもない。それでも五分ほど走れたことに大きな喜びを感じて、そこから自分で走るようになりました。当たり前すぎて私たちが気づかない可能性を、学校は保証しています。

ただし、行き過ぎると別のものを学ばせます。善意であっても、手取り足取り教え続ければ、「手取り足取り教えてもらう」という文脈のほうを学んでしまう。社会に出れば、隣に誰もいない場面が必ず来ます。そのときに自分で選び、その結果を引き受け、次をどうするかを考える。その力は、学んでおかないと困ります。

だから、悪ではありません。使い方と量を、私たちが選ぶという話です。

他者決定型の学習は悪ではない。使い方と量の問題である。

どこまで開くかは、子どもを見て決める

自己決定性にはグラデーションがあります。いちばん分かりやすい他者決定型はラジオ体操で、種目も流れも決まっています。そこから二人一組、四人、八人と広げていくと、折り合わせる相手が増える分だけ自由度も難しさも上がります。ここでいう難しさには、きつさだけでなく、飽きや、怠けたくなる気持ちも含まれます。

自己決定性にはグラデーションがある。一斉指導から、生涯スポーツの場面まで。

では目の前の実践をどうすればいいのか。子どもを見てください、という答えになります。発達段階、習熟度、ストレス耐性、学習欲求。このうち発達段階は、こちらが動かせるものではありません。見て合わせる条件です。やっかいなのは残りで、習熟度も、ストレスに耐える力も、学習欲求も、任せるかどうかを決める条件であると同時に、授業のなかで伸ばしていきたい対象でもあることです。学習欲求だけの話ではありません。満たされた環境を与え続ければ耐える力が育たないのと同じで、条件が整うのを待っているだけでは、いつまでも整いません。開くことで育ち、育つからまた開ける。その順序になります。

ずれると、はっきり問題が出ます。育っていない段階で開けば、不安と混乱が生まれるか、「何もしなくていい」と受け取られます。逆に、育っている子に指示を出し続ければ、「それはもう分かるから、もっとやらせてほしい」という反発になります。

「各自で準備運動をしておいてください」は、たいてい生産的な時間になりません。これは放任です。枠をつけると変わります。時間の枠でもいいし、「今日の主運動に生かせる動きを考えて」という内容の枠でもいい。枠があってはじめて、決めるための足場ができます。それでもうまくいかなければ、もう少し待つか、「今日は三種類やります」と教師が担い直す。開いて、任せて、だめなら枠をつける。その往復です。

枠があってはじめて、子どもが決めるための足場ができる。

そして、開くときには必ず伝えたほうがいいことがあります。自分たちで決められるようになってほしい、という期待と展望です。これを言わないと、「どうして先生は教えてくれないのか」になります。開くことは放任ではなく、枠組みを設計するという、別の形の指導性です。

PDCAを、生徒の側で回す

ふだんの体育の授業で、PDCAを回しているのは誰でしょうか。めあてを立て、活動を決め、評価し、次を改善する。たいていは教師です。そうすると生徒が伸ばすのは、教師の考えに近づいていく力になります。振り返っても次のねらいを決めるのは教師ですから、「振り返っても意味がない」という感覚がどこかで生まれます。言葉にはしませんが、そう学んでしまいます。

ふだんの授業では、PDCAを回しているのは教師の側になりやすい。

そこで今回の研究授業では、サイクルを生徒の側に移すことを試みました。

毎時間の「ねらい」を示すのをやめ、単元を貫く問いを一つだけ置く

1学期のマット運動(集団演技)では、「美しい演技とは何か」という問いを第1時に示し、最後まで変えませんでした。問いの条件は三つです。解釈に自由があること。本質を突いていること。そして、変えないこと。技を習得することは本来、美しく見せるためだったはずなのに、いつのまにか習得そのものが目的になってしまう。その順序を戻す問いでした。

ねらいを教師が決めると、それが生徒の実態に合うかどうかが毎回ギャンブルになります。合わなかったとき、それは教師の課題になります。生徒が自分で立てた目標なら、合わなかったことも生徒に返ります。「この目標ではだめだった、では次はどうするか」という目標設定のサイクルが起こる。当たるか外れるかではなく、外れたときにどちらの課題になるか。そこが分かれ目だと思います。

目標がそぐわなかったとき、それは誰の課題になるか。

授業の最後の「まとめ」をやめ、次の時間の冒頭に移す

最後の全体でのまとめは、声の大きい人が場を決めてしまいがちで、言いたいことがあっても出せないまま終わることがあります。そこで最後は個人の振り返りだけにしました。共有は次の時間の冒頭です。教師はそのあいだに、とくに大事にしてほしい記述を選び、なぜそれがよいのかを説明してから、改善点を決める時間に入ります。授業後は行事や移動に左右されて時間が確保できないこともあります。いちばん大事なことは、いちばん最初にやる。改善点を挙げた直後がいちばん熱い状態なので、その熱のまま授業に入ってもらう、という組み立てです。

基礎となる運動は、しっかり教える

開くといっても、全部を手放すわけではありません。補助倒立のような基礎感覚づくりは教師がきちんと教えます。バレーボールでも、ボール慣れの運動は毎時間しっかり扱いました。おもしろいのは、「美しい演技をするには、こういう基礎感覚が必要なんだ」と生徒の側がたどり着いたときに、同じ練習でも取り組み方が変わることです。やらされているときとは、動機づけも思考もまるで違います。

段階的に開く

マット運動では、曲のサビの前半を規定演技、後半を創作としました。バレーボールでは、単元前半に三種類の練習を指定し、後半はチームで選んで発展させる形にしました。2学期の問いは「良い練習とは何か」です。「良いチームとは」とも迷いましたが、行動が変わるところまで解像度を上げたくて、練習に絞りました。

このとき、練習の細かな説明もやめました。学習カードに、ねらい、配置、進め方、ポイントを書いて先に読んでもらう。教師が逐一説明して、うまくいかなかったら、それは教師の課題になります。カードを読み解くなら、生徒の課題になります。生涯スポーツの場面では、自分で調べて、やってみて、最初は精度が低くても、やりながら練習そのものの精度を上げていきます。その経験を、ここで一度しておいてほしいと考えました。

どの要素も、教師の枠組みの中に、子どもの選択がある。

当日の資料

講演で使ったスライドの公開版です(111ページ)。生徒の提出物そのもの、授業者の先生のお名前、学級が分かる情報は外し、記述の傾向は要約したページに差し替えています。研究授業の映像も含んでいません。

このほかに、当日お配りした学習カードの見本、練習カード、単元計画などもあります。ご入用の方は、個別にご連絡ください。喜んで対応します。授業づくりのご相談も同じです。

講演を終えて ― 事後の問いとして

ここからは、講演のあとに考えていたことです。

私は、指導法を具体化することには慎重でいたいと思っています。細かく定めて渡してしまうと、先生方の自律性を損なうことになるからです。これは博士論文でも扱ってきた問題でした。

収束的な提案は、長い目で見るとうまくいかないと私は考えています。「これが効く」という形で広まった方法は、提案した人や場と強く結びついて、いつのまにか信条のようになっていきます。方法に名前がつき、旗印になっていくと、目の前の子どもよりも先に方法が立ってしまうことがあります。そうなると議論は、「この指導法に子どもをどう合わせるか」に変わっていきます。本当は逆のはずです。子どもに合わせて、指導法をどう変えるか。

ですから私は、自分のやり方に名前をつけません。協同学習モデルもずいぶん扱ってきましたが、あれも現場でローカライズされます。すべてはローカライズされる。その事実の上で話をしたいというのが、私の誠実さのつもりです。指導法だけが現場を離れて一人歩きしてほしくない、という思いもあります。

では、どうするのか。正直に言えば、一緒に考えましょうということに尽きます。一人は不安です。私も分からないことだらけです。それでも、一緒に学びながら伴走することはできますし、それが必要なのだと思います。今回の話を聞いて「自分はこれをやろう」と思えなくてもかまいません。何かが揺さぶられれば、それで十分です。

自分がうまく話せたのかは、正直なところ分かりません。もっとこうすればよかった、ここは言い過ぎた、という後悔はいつもあります。ただ、それはすべて、自分にまだ向上する余地があることを示しているのだと思います。こうした機会をいただくたびに全力で向き合い、その結果をきちんと振り返って、次の学びにつなげていきたいと考えています。

講演を聞いてくださった方、この記事を最後まで読んでくださった方に、お礼を申し上げます。問いが開かれているのは、子どもたちだけではありません。私たちもです。

いまだここにないものをつくる。

実践とは、つまるところそれだと思います。工作のようにこしらえるのではなく、まだ誰も見ていないものを立ち上げる、という意味の「つくる」です。その気概を、できれば持っていたい。それは本来、わくわくする、私たちの本質的な喜びのはずですから。ぜひ一緒に、その機会を。

最後に、事後の問いをひとつ置いておきます。明日の授業で、子どもに任せられるものは何でしょうか。ひとつでかまいません。

公開授業をしてくださった先生と生徒の皆さん、単元づくりをともにしてくださった先生方、そして貴重な機会をくださった研究会の皆様に、あらためて感謝申し上げます。

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