教師の学びを支えるものとして、実践共同体(community of practice, 以下CoP)は長く有望視されてきた。ただし、これまで研究されてきたCoPのほとんどは「トップダウン型」である。大学や行政といった外部機関が教師を集め、特定の教育革新を成功させるという目的のもとに共同体を組織する。そこでは外部のファシリテーターが要となる。
では、誰にも頼まれずに、教師自身が立ち上げたCoPはどうやって続くのか。本稿で紹介するのは、Bomna Ko(East Carolina University)、Yun Soo Lee(檀国大学校・責任著者)、Tristan Wallhead(University of Wyoming)が Journal of Teaching in Physical Education 誌の2024年第43巻第2号に発表した質的ケーススタディである。韓国で10年以上続き、登録教員が約6,800名にまで拡大した体育教師主導のCoPを、その内部リーダー6名の視点から描き出している。
この記事の要点
- 外部の支援も予算もないまま教師が立ち上げたCoPが、10年で登録6,800名に達した。著者らはその要因を「共有ビジョン」と「テクノロジー」に求めている。
- 行政研修が「陳腐」と感じられる理由は、内容の質ではない。同じ来年度を準備している者どうしが、同じ時間を過ごしているかどうかの差である。
- ただし聞き取られたのは執行委員6名のみで、去っていった教師の声はない。そしてこの事例は、越境の枠組みで読み直したほうが精密に見える。
詳しい検討は 専門家コメント に書いています。
研究の背景・目的
効果的な専門能力開発(PD)が授業の質を高め、児童生徒の学習成果を向上させることには、おおむね合意がある(Darling-Hammond & Richardson, 2009)。ArmourとYelling(2007)は、効果的な継続的専門能力開発(CPD)が「教育が抱えるさまざまな問題に対する解決策」となりうるとまで述べた。
にもかかわらず、研究と実践のギャップは埋まっていない。課題として挙げられてきたのは、教員の関与や説明責任の不足、不適切または関連性の低い内容、文脈から切り離された実践、継続的支援の欠如である(Armour & Makopoulou, 2008; Keay, 2006)。Koら(2006)は、学校での指導と、文脈から切り離された1日形式のPDから得た学びとのあいだに乖離があることを示している。
理論的な足場は状況的学習論である。Lave とWenger(1991)に従えば、有意義な学習のためには教師は自らの働く状況から切り離されてはならない。Wenger(1999)はCoPを、ドメイン(共通の関心領域)・コミュニティ(相互交流と関係)・実践(共有されたレパートリー)という3要素で定義した。メンバーは正統的周辺参加を経て、完全な参加へと向かっていく。
問題は、実証研究の偏りにある。GoodyearとCasey(2015)、Parkerら(2012)、TannehillとMacPhail(2017)など、成果を挙げたCoP研究の多くは外部機関が組織したものであり、「ボトムアップ」型、すなわち教員主導のCoPを確立・維持する要因については、依然として理解が限られている(Parker et al., 2022)。本研究は、この空白を埋める最初の試みとして、次の2つを問う。
- どのような要因が、大規模な教員主導の体育CoPの誕生を促したのか
- CoPを効果的なCPDとして維持するうえで影響を与えた、内部リーダーたちが共有する価値観や経験とは何だったのか
方法
対象のCoPは、ウェブ上のプラットフォーム(後述の「ウェブカフェ」)に累計約6,800名の登録教員を擁する。15〜20名からなる執行委員会がボランティアとして運営を担い、会長・副会長・会計・理事・研究員といった役職がある。
参加者は、この執行委員会メンバー6名(男性4名・女性2名、37〜58歳)である。教職経験は11〜34年、高校勤務3名・中学校勤務3名、CoP在籍歴は2〜8年。著者らは彼らを「ファシリテーター」ではなく「内部リーダー(internal leaders)」と呼ぶ。教育学的学習の促進にとどまらず、会員募集、ブログ管理、対面PDイベントの企画・運営、助成金の申請・獲得まで担う、はるかに広範な役割だからである。
| 仮名 | 教職経験 | 校種 | CoP在籍 | 役割 |
|---|---|---|---|---|
| スー(F) | 34年 | 中学校 | 8年(2006年から) | 創設者・会長 |
| ジョー(M) | 13年 | 高校 | 7年 | PD部門長 |
| ジェフ(M) | 11年 | 中学校 | 8年 | 会計 |
| サラ(F) | 14年 | 中学校 | 4年 | PD部門研究員 |
| ジム(M) | 13年 | 高校 | 3〜4年 | 副会長・ブログ運営責任者 |
| ヘンリー(M) | 12年 | 高校 | 2年 | PD部門研究員 |
韓国の制度的背景も押さえられている。全国統一の国家教育課程があり、体育教師になるには4年制大学で体育学の学士号を取得し採用試験に合格する必要がある。合格後は約30時間の導入研修、3年の経験を積むと昇進申請の要件として90時間の必須PDと総括試験が課される。ただし昇進後の参加は義務ではない。
データは、(a) 各60〜90分の半構造化個別インタビュー6件、(b) コミュニティのウェブサイトから収集したアーティファクト(会員規約、共有教材、投稿と返信、イベント情報)、(c) 研究者の省察日誌6件である。分析は帰納的に行われ、三角検証・メンバーチェック・否定的事例の探索によって信頼性が確保された。調査はCOVID-19以前に実施されている。
結果
1.優れた指導に対する共通の情熱
参加者全員が、参加の主目的はより良い指導を行うことだと認めていた。創設者のスーは、コミュニティの発端をこう語る。
このコミュニティの原動力は、学校での体育授業をより良いものにするという目標だった。良い指導を行いたいという私たち自身の内発的動機が、外部からの支援や圧力なしにコミュニティの発展を後押ししたのだ。
この情熱が具体的に何を意味していたかは、ジムの回想に表れている。
CoPの初期の形態は、ある地域から20〜30人の教員が集まる会合だった。グループは学校での体育授業の改善を目指しており、会議はしばしば午後11時や深夜0時まで続き、その後、午前1時か2時頃に帰宅していた。
そして彼らは、外部からの支援やファシリテーションなしに、PD資料を掲載するウェブサイトを自分たちで開発し、サイト上のすべての投稿に返信することを合意した。
関与が続いた理由については、参加者たちは口をそろえて生徒の反応を挙げる。サラの語り。
この種の教員コミュニティに参加しなければ、教師は取り残されたり、停滞したりしてしまう。私の場合、14年前に大学で学んだことを基に教えざるを得なかったからだ。(CoPで学んだ)新しい指導モデルを取り入れたとき、生徒たちは喜んでくれた。私がこのコミュニティに参加する動機は、指導を通じて感じた満足感と成功にある。
2.専門的ネットワークの拡大
ヘンリーは、参加前後の落差をこう語る。
他の学区の体育教師との交流は限られていた。……参加してからのこの2年間で、これまでの10年間の教職生活で知り合った数よりも多くの体育教師と知り合うことができた。
関係のあり方そのものも変わっていく。ある参加者は「期待は何も持たずにこのグループに参加したが、出会って気に入った人たちのおかげで、次第に深く関わるようになった」と語り、サラは「金銭的な報酬はなかったが、わずかな見返りよりも、来年度に向けて準備をしている同僚たちと学び、交流する方を好んだ」と述べている。
3.共有を通じた協働
このテーマは、既存のPDへの不満から始まる。
教育省が提供する従来のPDでは、教材についての説明や、教授を招いて新しい知識を教師に紹介・解説することが行われていた。残念ながら、教師たちはこうしたリソースを陳腐なものだと感じることが多かった。(スー)
私はただ指導法について学びたかっただけだ。大学の教授たちが提示する理論は、私の実務にはあまり役に立たなかった。(ジェフ)
これに対し、CoPが選んだのは「共有を通じた学び」だった。ジムの言葉が、その違いを端的に言い当てている。
単に『良い指導とは何か』を定義するのではなく、実際に試してうまくいった特定の指導実践を共有することが、私の指導力を高める助けになった。
ある教師が公開授業を行うと、他のメンバーはオンラインでその授業を視聴できる。サラは、この共有の価値をこう語る。
教師が他者から指導について直接的な助言や批評を受ける機会は限られている。互いにアイデアを交換できる他の教師たちとの親密な関係は、本当にありがたい。大学院に通うよりも、この人たちと自分の指導を共有することから多くを学んでいる。
そして、共有は受け取る側だけの経験ではない。
私が共有した新しいことをきっかけに、ある教師が変わり、バレーボールを教えることを選んだとき、胸に電気が走ったような感覚だった。
4.テクノロジーを活用したCPD機会の拡大
主要プラットフォームは「ウェブカフェ」と呼ばれるオンラインブログである。特徴的なのは段階的な会員レベル制度で、準会員と正会員では資料へのアクセス権限が異なる。正会員になるには「少なくとも2件の教育関連投稿と3件の返信を作成・共有すること」が求められる。貢献の度合いが、参加の深さを規定する仕組みである。
ウェブカフェには1日あたり2〜3人の教師が新規登録し、管理を担ったジムは「私がカフェの管理を担当するようになってから、コンテンツが増え、分類されるようになり、規模は20倍に拡大し、授業の動画クリップもますます増えた」と述べる。内容は心肺蘇生法、フィットネス、縄跳び、ジャグリング、フラッグフットボール、ラケットスポーツ、ダンスなど多岐にわたり、用具やルール、アレンジ例の動画、指導スキル、授業計画が含まれる。
加えて、韓国で普及しているメッセンジャーアプリ「カカオトーク」が交流を支えた。
現在、内部のリーダー全員がグループチャットに参加している。彼らは自分たちが取り組んだ活動の写真を送り合い、リソースを共有している。直接会うことはめったにないが、アプリを通じて毎日顔を見合わせ、会話している。(ヘンリー)
だが、ここで論調が反転する。ジョーの指摘である。
オンラインで会ったり、カカオトークを通じて意見を交換したりしても、関係を築くためにはやはり対面での出会いが不可欠だ。オンラインでの交流では、教師たちが直面している文脈的な課題を理解するのが難しいため、より表面的な関係になりがちだ。
毎日動画を見るだけでは面白くないと感じたため、私たちの焦点は認知的な理解から、身体的な関与を通じた学習へと変わった。主な焦点は、オンラインからよりオフラインでの交流への移行にある。(ジョー)
考察のポイント
著者らの考察で最も重要なのは、外部機関の役割をめぐる反転である。
従来のCPD研究では、教員を集めCoPを構築するプロセスにおいて外部機関が極めて重要な役割を果たしてきた(Goodyear & Casey, 2015; Parker et al., 2012ほか)。そして他のCoPで学んだ教員は、資金提供や外部機関のイノベーション・アジェンダに関連する特定の成果を追求するために、意図的に募集されることが多かった。著者らはここに踏み込む。それらのCoPも継続的な社会的交流を通じて形成されたが、外部によるファシリテーションが介入することで、学習共同体の持続可能性がかえって制限される可能性がある、と。
本研究のCoPは、その逆である。「効果的な専門的実践を学びたいという教師たちの情熱が、彼らをこのグループへと導いた」。コミュニティの構造は当初は周辺的だったが、正統的周辺参加の過程を経て中心へ向かう。ウェブサイトに組み込まれた段階的な会員レベル制度が、その可視化された装置だと著者らは指摘する。
持続を可能にしたのは、内部リーダーによる組織的な取り組み——(a) オンライン・オフラインでの交流の促進、(b) 毎年異なるプロジェクトや目標の策定、(c) 多様なPDイベントの企画・実施——である。そしてこれが機能したのは、メンバー間に相互信頼と尊重の文化が育まれ、結果として専門的な学習とリーダーシップの輪番制という循環的なプロセスが生まれたためだった。
限界として著者らが挙げるのは、視点が内部リーダーのみに限られていること、そしてCoPを通じた教師の学習が生徒の学習に与える影響が測定されていないことである。
まとめ
- 韓国で10年以上続き、登録教員約6,800名に達した体育教師主導のCoPを、内部リーダー6名の視点から記述した質的研究である。
- 発端は、外部の支援も予算もないまま、深夜0時まで議論していた20〜30人の会合だった。
- 行政のPDを「陳腐」と感じた教師たちは、理論の解説ではなく「実際に試してうまくいった実践」の共有を選んだ。
- ウェブカフェの段階的会員制度が、貢献と参加の深さを結びつけていた。
- テクノロジーは規模を拡大したが、「対面でないと表面的になる」という認識から、焦点はオフラインへと戻された。
- 著者らは、外部ファシリテーションの介入がかえって持続可能性を制限しうると示唆する。
専門家コメント
この論文には22か所のハイライトを引いた。これまで紹介してきた論文のなかでも群を抜いて多い。それは、この研究の対象そのものが私の関心の中心にあるからだが、同時に、書かれていないことが気になり続けたからでもある。順に整理したい。
まず、素直に頷いたところ
冒頭の記述——「特定の成果を達成するための外部やその他の制度的な圧力なしに、学校における体育の質を向上させるべきだという共通のPD目標を共有する数名の教員によって立ち上げられた」——に、私は「共通の目的の中から立ち上がった」と書いた。そして、深夜0時まで議論し午前1時か2時に帰宅していたという記述には、「初期は、成員の並外れた尽力によって成り立っていた」と書いた。
この二つは対になっている。共通の目的があったから続いたのではない。共通の目的があり、かつ何人かが常軌を逸した時間を注ぎ込んだから続いた。この種のコミュニティを語るとき、私たちは前者だけを取り出して「ビジョンの共有が大事」と要約してしまいがちだが、それは半分でしかない。後者は再現できないし、推奨もできない。だからこそ論文に書かれにくい。この論文がそれを書いたことは評価したい。
「効果的な専門的実践を学びたいという教師たちの情熱が、彼らをこのグループへと導いた」という一文には、「情動性の貢献」と書いた。私は情動と行為主体性の関係に関心を持ってきたが、この論文はまさにその事例になっている。ここでの情動は、コミュニティが生み出した結果ではなく、コミュニティを生み出した原因として位置づけられている。同時に、参加を継続させた要因として「生徒の学習にプラスの効果が見られたこと」が挙げられている箇所には「やはり専門職としての満足感は、生徒の成長や反応にある」と書いた。情動が入口であり、出口でもある。この往還が10年以上続いたということだろう。
そして私が最も心を動かされたのは、この一節である。「私が共有した新しいことをきっかけに、ある教師が変わり、バレーボールを教えることを選んだとき、胸に電気が走ったような感覚だった」。ここには「与えることにも喜びを感じている」とだけ書いた。
CoP論は、しばしば「参加者が何を得たか」という受益の言葉で語られる。だがこの語りが示しているのは、与えることそれ自体が報酬になるという構造だ。会員レベル制度が「2件の投稿と3件の返信」を正会員の条件にしているのも、この構造を制度化したものと読める。もらうために出すのではなく、出すこと自体が参加の中身になる。これは無償のボランティア組織が10年以上続くための、おそらく最も本質的な条件である。
関連して、サラの「大学院に通うよりも、この人たちと自分の指導を共有することから多くを学んでいる」という言葉と、「他の教師たちと自分の指導戦略を共有できてとても嬉しい」という言葉に、私は「共有する内容などの価値よりも、ただ共にある関係であることが重要なのかもしれない」と書いた。もちろん、共有される内容に価値がなければ関係は続かない。だが、内容の質だけで説明しようとすると、なぜ大学院や行政研修より学べるのかが説明できなくなる。行政のPDにも良質な内容はあるはずだからだ。差を生んでいるのは内容の質ではなく、同じ来年度を準備している者どうしが、同じ時間を共に過ごしていることではないか。サラの「来年度に向けて準備をしている同僚たちと学び、交流する方を好んだ」という一言が、それを言い当てている。
また、「期待は何も持たずに参加したが、出会って気に入った人たちのおかげで次第に深く関わるようになった」という語りには、「関係性の変容」と書いた。参加は目的から始まらなくてもよい。目的は、関係のあとから立ち上がることがある。正統的周辺参加という概念は、しばしば「周辺から中心へ」という能力の話に読まれるが、ここで起きているのは能力の移動ではなく、関係の濃度の変化である。
次に、疑問が残ったところ
結果の冒頭、4つのテーマが提示される箇所に、私は「どのように創出されたのか。必要性から? であれば当時何か問題が生じたのか」と書いた。そしてスーの「内発的動機が、外部からの支援や圧力なしにコミュニティの発展を後押しした」という語りには、「共有ビジョン、これが境界オブジェクトに? このようになった過程が見えない」と書いた。
これがこの論文への私の最大の疑問である。共有ビジョンが「あった」ことは繰り返し語られるが、それが「どう作られたか」は一度も語られない。20〜30人が集まった当初、彼らは同じことを考えていたのか。それとも、深夜0時までの議論のなかで、少しずつ言葉がすり合わされていったのか。後者だとすれば、その「学校体育の質を上げる」という言葉こそが、異なる背景の教師たちをつなぐ境界オブジェクトとして機能したはずだ。境界オブジェクトは、各人が自分の文脈で解釈できるだけの曖昧さと、共同作業を成立させるだけの頑健さを併せ持つ。「学校体育の質」という言葉は、まさにその条件を満たしている。
だが本論文は、それを分析していない。内部リーダーへの回顧的インタビューという方法の限界でもあるだろうが、結果として「志を同じくする教師が集まった」という同語反復に近い説明にとどまっている。
関連して、従来のPDへの不満が語られる箇所には「これは何故効果的でなかったか。異質性が大きすぎたから、ニーズと違ったのか」と書いた。「教授を招いて新しい知識を紹介・解説する」「大学の教授たちが提示する理論は実務に役立たなかった」——これらは告発としては強いが、診断としては粗い。理論が役に立たなかったのは、理論そのものの問題なのか、理論と実践の距離が大きすぎたのか、それとも翻訳する者がいなかったのか。この区別は決定的に重要である。というのも、この区別を曖昧にしたまま「教師主導が良い」と結論すると、理論を排除することが正解であるかのような読み方を招くからだ。
実際、ジムの「『良い指導とは何か』を定義するのではなく、実際に試してうまくいった特定の指導実践を共有する」という言葉には、「抽象的な取り組みよりも即時的なものを好んだのだろうか」と書いた。私はこれを全面的には支持できない。「うまくいった実践」の共有は強力だが、「なぜうまくいったのか」を問わない共有は、文脈が変わった瞬間に転用できなくなる。前に紹介した木原らの研究で、教師たちが3年かけて「なぜ良いのか悪いのか」を語れるようになっていった過程と読み比べると、この差は小さくない。
そして、最も強く書き込んだのがここである。「参加者は、エンパワーメントの経験を通じてCoPに対する当事者意識を育まれ、それが教師コミュニティの持続可能性にとって不可欠な要素となっている」という考察に、私は「参加者のエンパワーメントの経験はどこにあるのか。リーダーのみの聞き取りでは難しい。よい側面しか見えてこない」と書いた。
6,800名の登録者に対して、聞き取られたのは執行委員6名である。しかも彼らは、募集も、ブログ管理も、イベント運営も、助成金申請も担っている当事者だ。このコミュニティに最も投資し、最も報われた6人に、このコミュニティの価値を尋ねている。著者ら自身も限界として認めているが、認めれば済む種類の限界ではないと私は思う。6,800名のうち、投稿も返信もせず準会員のまま去った教師は何人いたのか。カカオトークのグループチャットに入れなかった人はどう感じていたのか。段階的会員レベル制度には「評価システムの存在?」と書いたが、これは参加を促す装置であると同時に、参加できない者を可視化する装置でもある。正統的周辺参加の「周辺」は、Wengerの言うとおり力を与える位置にもなれば、奪う位置にもなる。この論文が描いたのは、前者だけである。
そして、私自身が考えたこと
外部機関の関与についての記述——「外部によるファシリテーションが介入することで、学習共同体の持続可能性が制限される可能性がある」——には、少し長く書き込んだ。
「外部機関が関与する場合にはその本質的な目的によって、協働関係は影響を受けるかもしれない。共有ビジョンが崩れる。それは内部からも生じ得る。内部の人らで目的が変わってしまい、分断をもたらす。」
著者らの主張は、外部/内部の二項で組み立てられている。外部が入ると持続可能性が下がり、内部から立ち上がれば続く。だが本当にそうだろうか。共有ビジョンの崩壊は、外部からだけでなく内部からも起きる。10年も続けば、創設世代と新規参入世代では、そもそも見ている問題が違う。ウェブカフェで動画を探しに来た若手と、深夜0時まで議論していた創設者とでは、「学校体育の質」という同じ言葉が指すものが同じであるはずがない。
この論文が「輪番制」に触れている箇所——「専門的な学習とリーダーシップの輪番制という循環的なプロセスが生まれた」——に、私は「リーダーを変えるというのは重要なことなのかもしれない」と書いた。おそらくこれが、内部からの分断に対する唯一の実践的な答えである。リーダーが固定されると、共有ビジョンは創設者個人の記憶に癒着する。輪番にすれば、そのつど「私たちは何のために集まっているのか」を言い直さざるをえない。言い直しの機会こそが、共有ビジョンを生き延びさせる。この論文が最も重要な発見をさらりと1行で済ませているのは、もったいないと思う。
テクノロジーについては、カカオトークとジョーの「対面でないと表面的になる」という指摘に「テクノロジーの貢献と限界」、そして焦点がオフラインへ戻ったという記述に「いったり来たりする。一様に決まった形にはならない。柔軟に変化を続けられることが強みなのかもしれない」と書いた。
私はここに、この論文が意図せず捉えた最も面白いものがあると思う。このコミュニティは、オンラインで拡大し、オンラインの限界に突き当たり、オフラインに戻った。だがそれは後退ではない。20〜30人で集まっていた頃のオフラインと、6,800人を抱えた後のオフラインは、まったく別のものだからだ。形態が振動していること自体が、このコミュニティの生存戦略なのではないか。一つの最適解に収束せず、そのつど条件に応じて形を変えられること。これは「持続可能性」という静的な言葉では捉えきれない性質だと思う。
最後に、結論部——「効果的なPDに対する共通の価値観を持つ教員によって立ち上げられ、効果的な協働学習のプラットフォームを提供した技術革新を通じて発展した」——に、私はこう書いた。
「要因は、共有ビジョンとテクノロジーということ。越境という枠組みがないため、素朴な議論にみえる。」
これがこの論文への総括的な評価である。共有ビジョンとテクノロジー。それは間違ってはいない。だが、この2つで説明を終えると、このコミュニティで実際に何が起きていたのかが取りこぼされる。
越境(boundary crossing)の枠組みで見れば、このCoPは境界だらけである。中学校と高校の教師が同じ場にいる。教職11年目と34年目が同じ場にいる。行政研修という制度的実践と、この自主的な集まりという別の実践のあいだにも境界がある。オンラインとオフラインという二つの参加形態のあいだにも。そして何より、ここで学んだことを自分の学校に持ち帰るとき、教師は毎回境界を越えている。「私が共有した新しいことをきっかけに、ある教師が変わり、バレーボールを教えることを選んだ」——これは、共有された実践が別の学校という別の文脈へ移し替えられた瞬間、つまり越境が成功した瞬間の記述である。
著者らはそれを「共有を通じた協働」という一つのテーマに括ってしまった。だが、何と何のあいだの境界が越えられたのかを分けて記述すれば、このコミュニティが持っていた学習資源としての厚みが、もっと精密に見えたはずだ。「志を同じくする教師が集まった」のではない。異なる場所にいた教師たちが、その違いを資源にできる場をつくった——そう書けたのではないか。それが私がこの論文に感じた、最大の物足りなさである。
元論文情報
- タイトル:Initiating and Sustaining a Teacher-Initiated Community of Practice as a Form of Continuing Professional Development: Internal Leaders’ Perspectives
- 著者:Bomna Ko, Yun Soo Lee, Tristan Wallhead
- 掲載誌:Journal of Teaching in Physical Education, 43(2), 219–227
- 発行年:2024年
- DOI:10.1123/jtpe.2022-0224
- URL:https://journals.humankinetics.com/view/journals/jtpe/43/2/article-p219.xml
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