日本の授業研究における学び|Japanese elementary teachers’ professional development experiences in physical education lesson studies

2020年〜2024年

小学校の教員免許に、教科の区分はない。国語も算数も体育も、同じ担任が教える。そして日本の教員養成課程では、体育科教育学を必修として履修する仕組みになっていない。この構造のもとで、若い教師が体育の授業をどう学んでいくのか——その一部始終を、たった1校・6名の関係者の語りから描き出したのが本稿で紹介する研究である。

佐藤貴弘(筑波大学)、津田恵美(West Virginia University)、Douglas Ellison(Kent State University)、Samuel R. Hodge(The Ohio State University)が Physical Education and Sport Pedagogy 誌の2020年第25巻第2号に発表した質的研究である。アンドラゴジー(成人学習論)の枠組みを用いて、日本の小学校教師が授業研究で何を経験しているのかを、授業者・メンター・校長・学区コーディネーターという異なる立場から同時に記述した点に特徴がある。

この記事の要点

  • 体育科教育学を履修しないまま教壇に立つ日本の小学校教師の学びを、1校6名の語りから描いた質的研究。ハードル走の研究授業で、若手教師が「教えることはコーチングとは違う」と気づく瞬間を記録している。
  • 「速く跳ぶ方法は知っている。だが教えることは違う」——専門家であることは翻訳者であることを保証しない。必要なのは種目の知識ではなく、種目を教育活動へ翻訳する力だと私は考える。
  • 研究授業から取り出せるものの上限は、授業者ではなく観察者の力量が決める。検討会は理念ではなく具体案の数で動く。ただし子どもの声がなく、2か月では変化の追跡になっていない。

詳しい検討は 専門家コメント に書いています。

研究の背景・目的

著者らはまず、日本の小学校教師が置かれた構造的条件を整理する。

第一に、教員養成が学校段階ごとに分かれており、教科別免許があるのは中等教育のみである。全教科を担当する小学校教員にとって、教科に特化した深い研修の欠如は恒常的な課題となる。第二に、小学校教員はおおむね7年ごとに県内の別の学校へ転勤する。生徒間の教育格差を最小化するための制度だが、キャリアを通じて新しい職場環境に置かれ続けることは、職業上の孤立や、児童・保護者との信頼関係の構築の困難につながりうる(Collinson & Ono, 2001; 島津ら, 2003)。

この条件下で、1920年代から続く授業研究が重要な役割を果たしてきた。授業研究は、同僚や指導者からの教育法に関するフィードバックや提案、児童の反省的・批判的思考といったさまざまな種類の知識を「可視化」する(Sato, Ellison, & Eckert, 2019)。

本研究がこれを読み解く枠組みとして用いるのがアンドラゴジー(andragogy)である。Knowles(1989)に発するこの概念は、成人の学習特性が子どものそれとは大きく異なるという前提に立つ。ペダゴジー(pedagogy)が「何を、どう学ぶか、学んだかどうか」の判断を指導者に割り当てるのに対し、アンドラゴジーでは自己省察・内発的動機づけ・高い自己効力感が中心に置かれ、学習は指導者からだけでなく人生経験や職業経験を通じても起こると考える。そして自己主導型学習には、フィードバックと指導(メンタリング)という要素が含まれる。

Fidishun(2012)が指摘するように、成人学習者は自立的である一方、授業研究への参加は依存的な学習者としても構築されうる。教師が自らの成長に責任をもつ自己主導的な学習者に育つかどうかは、ファシリテーターにかかっている。この視点から、著者らは次の2つの問いを立てた。

  • 小学生への体育指導に関連して、日本の教師はどのような授業研究を経験しているのか
  • 授業研究の経験は、教師が小学生に体育を教える際にどう影響するのか

方法

調査地は千葉県の都市部にある戸山小学校(仮名)。児童数約600名、学区全体の小学生総数33,506名、平均世帯年収383万円という中流層の多い地域である。ここ5年で多くの教師が退職したため、教職5年未満の若手教師が学区の8割以上を占めるという特殊な状況にあった。

参加者は6名。

  • 山口氏(26歳):授業研究の授業者。教職3年目、3年生担任。器械運動(マット運動のフロアルーティン)の授業を実施
  • 天海氏(27歳):授業研究の授業者。教職5年目、5年生担任。元100mハードルの選手。3年生35名に45分のハードル走の授業を実施
  • 石毛氏(32歳):2名のメンター役
  • 林氏(30歳):校内の体育主任・専門能力開発コーディネーター
  • 大西氏(45歳):学区の体育コーディネーター(観察者)
  • 齋藤氏(62歳):校長(評価者)

重要な前提として、この6名のうち、教員養成課程で体育科教育学のコースを履修した者は一人もいない。日本の大学の教員免許課程では中等体育関連科目が開講されているが、当該課程にはそうしたコースがなかったためである。また山口氏と天海氏は、赴任先で「学級崩壊」に直面していた。

データは、(a) 6名への60〜90分の半構造化個別面接、(b) 2つの研究授業中に観察者どうしが交わした会話の録音、(c) 授業研究後の検討会での議論の録音である。分析はFeredayとMuir-Cochrane(2006)のハイブリッド型主題分析により、アンドラゴジーの概念に照らして重要なフレーズを抽出した。信頼性は三角測量・メンバーチェック・ピアデブリーフィングによって担保されている。

結果

テーマI:課題——生徒の関与と学習成果を捉えられない

2名の若手授業者は、児童の感情や反応を捉え、安心して臨める学習環境を築くことに苦しんでいた。両者とも授業を面白くしようと努めたが、観察者たちは児童が受動的・無関心な態度を示していることを察知した。

著者らはこれを「不協和(dissonance)現象」——成人学習者の既存の教育学的知識が指導の場で問われ、それが不完全であることに気づく事態——と呼ぶ(Knowles, 1984; Taylor & Hamdy, 2013)。

天海氏のハードル走の授業について、観察中に交わされた3人の会話が本論文で最も生々しい記述である。

運動技能の指導にこだわる前に、生徒がレッスンを楽しんでいるか、生徒と和やかな関係を築いているかを確認する必要があることを、すべての教師に伝えた。天海先生は、生徒への配慮が足りず、運動技能の指導に専念していたため、生徒が授業に消極的になってしまった(生徒が「先生は自分のことを見てくれていない」と感じてしまうため)。(齋藤氏、観察中の会話)

齋藤さんの意見に賛成です。……というのも、生徒の中には、さまざまな高さのハードルを乗り越えたり、くぐったりする活動を楽しんでいる生徒がいるからです。見て! もっとやりたそうにしているのに、天海先生はそれを止めた。生徒たちは怒っているようだ。林さん……この問題を事後の検討会に持ち込んでもらえますか?(大西氏、観察中の会話)

はい、できますよ、大西さん。……天海さんが100mハードルの選手であったことは知っていますが、子どもたちへの指導は、その競技経験とは異なるようです。(林氏、観察中の会話)

著者らの分析はこうである。授業中の天海氏は、時間内に内容を完了させなければならないというプレッシャーから来る自己実現に焦点を当てていた(Rothmann & Hamukangandu, 2013)。児童に成功と楽しさの経験を提供するという方向へ、この試みを転換する必要があった。

テーマI(続):授業者自身の省察

検討会を経た天海氏の個別インタビューは、本論文の核心である。

小学生にハードルの技術を効果的に教えることの難しさを、私は過小評価していた。私は長い間アスリートだった。どうすれば速く走れるか、どうすれば速く跳べるかは知っているが、教えるということはコーチングとは違うということを学んだ。……私が種目ベースの授業をデザインしたことが多くの問題を引き起こしたと感じた。何が好きで何が嫌いなのか、レッスン中の子どもたちの表情や気持ちを汲み取るのに苦労しました。石毛先生からは、レッスン中の生徒の反応に注目するよう勧められました。また、より発達段階に合った課題を作るように言われました。例えば、音楽やリズミカルなアクティビティを使って、この発達レベルに合ったハードリングのスキルを高めることを勧められました。(天海氏、個別インタビュー)

著者らはこれを、教科中心の授業からパフォーマンス中心の授業への概念的移行——既存のアイデアの受動的な知識から、どう教えるかについてのアイデアを生み出す能動的な知識への移行——と位置づける(Knowles, 1980)。

校長の齋藤氏は、これを個人の問題ではなく学区の構造の問題として語っている。

この学区には山口さんや天海さんのような初任教師が多い。教師の80%以上が初任者です。……(初任者の多い学区では)学級崩壊は深刻な問題でした。子どもたちは先生を無視して暴れたり、出て行ったり、学用品や教室の備品を壊したりもしました。(齋藤氏、インタビュー)

テーマII:メンターの役割の重要性

山口氏は授業研究の意味をこう語る。

授業研究は、自分の指導における目に見えない問題や気づいていない問題を見つけることができる唯一の機会です。(山口氏、インタビュー)

興味深いのは、メンター側の石毛氏の語りである。

山口さんと天海さんの指導者として、私はフィードバックと指導のスキルを学んだ。山口さんと天海さんには、授業改善のための資料を探す時間がありません。二人の授業研究発表を見て、私は二人のために、それぞれのニーズに合った有益な教材をどのように選べばよいかを考えていました。二人の教師は学習スタイルが異なる。山口先生は、ウォーミングアップ、本題、クロージングなど、レッスンの各要素について段階的にフィードバックすると、自信を深める傾向があります。一方、天海さんは、自分なりに葛藤しながら指導力を高めていった。(石毛氏、インタビュー)

著者らは、石毛氏にとってこの指導経験は「目から鱗が落ちるようなもの」だったと記す。

体育主任の林氏は、小学校教師の構造的制約を数字で語る。

山口先生と天海先生は、今年度を通して子どもたちに体育を教えている。他のクラスの子どもたちに教えるわけではない。ここで3年間を過ごした彼らは、2〜3学年の子どもしか教えていないことになる。つまり、3年間で90〜100人の子どもたちを教えた経験しかないのだ。……私たちはジェネラリストであり、だからこそ授業研究が必要なのです。(林氏)

そして林氏は、授業研究のねらいを明確に定義する。

すべての教師はすべての教科を教える必要があるため、授業研究は体育の専門家にするのではなく、体育の授業を効果的に実施するための様々な指導スタイル(命令、練習、相互的、自己チェック、ガイド・ディスカバリー)を理解する一般的な教育者になるよう支援しようとするものである。

テーマIII:自己主導的な学習者

授業後の検討会で、林氏が全員に投げかけた問いは評価だった。「目標とする学習成果に対する生徒の達成度をどのように測定するか」。

これは重要な問題だと思うが、その答えを知っていると言える自信はない。私はハードルの選手だったが、小学生が上達するために何が必要かを見極めるのに十分な時間をかけていなかった。想像もしていなかった。(天海氏、検討会)

これに石毛氏が応じる。

私の提言は、天海さんには、体育における発達段階に適した妥当性をテストする小規模な評価が必要だということだ。おそらく、彼女はハードリングの技術を知っているが、小学生向けではない。……例えば、短期的な目標に沿ったシークエンスの動きを使うことができる。(石毛氏、検討会)

もう一人の授業者である山口氏も、この検討会で自分の授業を捉え直している。

明日からは、3年生を対象に、器械運動のフロアルーティンについて、適切で発達段階に応じた評価を1ページ作成する。また、スキルやテクニックにフォーカスしすぎていたように思います。子どものやる気には関心がなかった。……検討会では、運動経験が子どもの指導に悪影響を及ぼすことがあること、子どもの発達や学習の進度を無視してしまうことがあることを学びました。(山口氏、インタビュー)

学区コーディネーターの大西氏は、この構図全体をこう総括する。

この授業研究は、山口先生や天海先生だけでなく、林先生や石毛先生も対象であり、私や齋藤先生も含めて、すべての教師が指導力を評価している。

大西氏自身も、「単純なフィードバック(手取り足取りや提案)ではなく、建設的で有益なフィードバックを示すために、石毛氏と林氏の指導についてまだ勉強中である」と述べている。

現場への示唆

著者らは5つの提言を挙げている。要点は次のとおりである。

  • 授業研究の有無にかかわらず、教師の成長には省察のサイクルが不可欠である
  • 授業研究モデルを他国へ移植する際は、その国の文脈と専門能力開発の目的に合わせた変更が必要である
  • 教師は児童の発達段階と授業への反応を理解することに苦しんでいる。だからこそ授業研究では、子どもの思考と学習に注意を向ける必要がある
  • 学区は、児童の学習成果に焦点を当てた授業研究プログラムを確立し、若手とベテランのメンタリングを制度として整備する必要がある
  • 授業研究は、関心のある少人数の教師グループから始め、学習共同体を形成するのがよい

研究の限界としては、1校のみの事例であること、各役割の参加者が1〜2名にとどまること、教頭が含まれていないこと、そして児童本人への聞き取りが行われていないことが挙げられている。

まとめ

  • 教員養成で体育科教育学を履修していない小学校教師が、授業研究で何を学ぶのかを、6名の異なる立場から記述した質的研究である。
  • 元100mハードル選手の若手教師が、「教えることはコーチングとは違う」と気づく過程が中心に据えられている。
  • 観察者たちは、ハードルをくぐって楽しむ子どもを授業者が止めた場面を捉え、それを検討会の議題に持ち込んだ。
  • メンターの石毛氏自身も、指導することを通じてフィードバックの技術を学んでいた。
  • 体育主任の林氏は、授業研究の目的を「体育の専門家をつくること」ではなく「多様な指導スタイルを理解する一般的な教育者を育てること」と定義した。

専門家コメント

私がこの論文を読みながらハイライトを引いた8か所は、大きく3つの塊に分かれる。順に書いていきたい。

まず、「不協和現象」という説明である。著者らは、天海氏と山口氏が児童の反応を捉えられなかったことを、「成人学習者の既存の教育学的知識が指導の場で問われ、それが不完全であることに気づく」不協和として説明する。私はここに「不十分な教育環境のこと?」と書き込んだ。

これは言葉遊びではない。Knowlesの「不協和」は、あくまで個人の内側で起きる出来事として記述される。既存の知識が不完全であることに、本人が気づく。だが本論文の方法のセクションには、こう書かれている——「教員養成課程で体育科教育学のコースを履修した教員はいなかった」。つまり不完全だったのは天海氏の知識ではなく、天海氏に体育の教え方を教えなかった養成システムのほうではないのか。齋藤校長が「教師の80%以上が初任者」と語った学区の状況も同じである。個人の学習論の語彙で書くと、構造の問題が個人の気づきの物語に回収されてしまう。私はこの論文の記述に、その危うさを感じた。

次の塊は、ハードル走の授業そのものについてである。

齋藤校長の「運動技能の指導に専念していたため、生徒が授業に消極的になってしまった」というコメントに、私は「教師の見えやすい成果に傾倒してしまう様子」と書いた。ハードルを速く跳べるようになったかどうかは、目で見て分かる。子どもが「先生は自分を見てくれていない」と感じているかどうかは、見ようとしなければ見えない。若い教師が前者に傾くのは、怠慢ではなく、後者の見方をまだ持っていないからだ。

そして大西氏の観察——ハードルをくぐったり越えたりして楽しんでいる子がいるのに、天海先生はそれを止めた——には、二つのことを書いた。「かえって視野を狭くしてしまい、児童の学習を妨げてしまっていた」と、「観察役の力量が垣間見える」である。

前者について。ハードルを「くぐる」のは、種目としてのハードル走から見れば逸脱である。だが運動の学習として見れば、ハードルという用具との関係を子どもが自分なりに探っている場面だ。天海氏の競技経験が、この場面を「やめさせるべきこと」に見せた。山口氏が後に「運動経験が子どもの指導に悪影響を及ぼすことがある」と語ったのは、まさにこのことである。私はこれを、教材観の問題として読みたい。競技としての種目を教材の中心に据えると、子どもの逸脱は排除の対象になる。子どもの学習を中心に据えると、同じ逸脱が手がかりになる。

後者について。この論文で私が最も感心したのは、実は授業者ではなく大西氏の観察の精度である。「見て! もっとやりたそうにしているのに」——彼は、子どもの表情と身体の向きから、その子がまだ続けたがっていることを読み取っている。しかもその場で林氏に「この問題を事後の検討会に持ち込んでもらえますか」と依頼している。見る力と、見たものを組織に流し込む力が、同じ人物のなかで働いている。研究授業の質は授業者の力量で決まると思われがちだが、この場面が示しているのは逆である。観察者の力量が、その研究授業から取り出せるものの上限を決める。

もう一つ、「時間内にレッスン内容を完了させなければならないというプレッシャーから来る自己実現に焦点を当てていた」という一節には、「授業に対する焦点が児童の学習ではなかった」と書いた。ここは前に紹介したCaseyとMacPhailの研究と正確に重なる。あちらの熟練教師も、自分が計画した内容を成功の基準にしてしまうと述べていた。教職5年目の日本の教師と、教職11年目のイギリスの研究者教師が、同じ罠にはまっている。これは経験年数の問題ではないということだ。

そして天海氏の「教えるということはコーチングとは違う」という一文に、私は「PCKの問題に入っている」と書いた。

教育内容についての知識(CK)は、彼女は誰よりも持っていた。100mハードルの選手だったのだから。だが授業を機能させるのは、内容の知識ではなく教育内容知識(PCK, pedagogical content knowledge)——この内容を、この発達段階の、この子どもたちに、どういう順序と形で差し出すかについての知識である。石毛氏が示した「音楽やリズミカルな活動を使う」という具体案は、まさにPCKの中身そのものだ。この論文が価値をもつのは、PCKが立ち上がる瞬間を、当事者の言葉で記録している点にある。理論として説明されたPCKは何度も読んできたが、「私は速く跳ぶ方法を知っている。だが教えることは違う」という一文ほど、それを短く言い当てたものを私は知らない。

三つ目の塊は、メンター側についてである。

石毛氏の「山口さんと天海さんの指導者として、私はフィードバックと指導のスキルを学んだ」という語りに、「指導者側の学習も含まれていた」と書いた。授業研究を「若手が学ぶ場」と捉えるかぎり、これは副産物にしか見えない。だが大西氏の「この授業研究は、山口先生や天海先生だけでなく、林先生や石毛先生も対象であり、私や齋藤先生も含めて、すべての教師が指導力を評価している」という総括を読むと、位置づけが変わる。授業研究の学習単位は個人ではなく、その場に居合わせた全員である。大西氏が「建設的なフィードバックを示すために、石毛氏と林氏の指導についてまだ勉強中である」と述べているのも同じ構図で、学区で最も経験の長い45歳が、30代の二人から学んでいる。日本の授業研究の強みを一つ挙げるなら、私はこの学びの多方向性を挙げたい。

そして、林氏の「授業研究は体育の専門家にするのではなく、多様な指導スタイルを理解する一般的な教育者になるよう支援するもの」という定義。ここには「種目指導の専門家としてではなく、それを教育活動にどのように落とし込むか、という力を育てる」と書いた。私はこの一文を、本論文で最も重要な主張だと考えている。

小学校の担任教師に体育の専門性を求める議論は、しばしば「もっと種目の知識を」という方向に流れる。だが林氏が言っているのは逆である。必要なのは種目の知識ではなく、種目を教育活動へ翻訳する力だ。そして皮肉なことに、この論文が示したのは、種目の知識を最も豊富に持っていた天海氏が、最も翻訳に苦しんだという事実である。専門家であることは、翻訳者であることを保証しない。むしろ妨げることがある。これは体育だけの話ではなく、大学で専門を修めた者が教壇に立つときに常についてまわる問題だと思う。

最後に、林氏の問い(評価をどう測るか)に天海氏が答えられず、石毛氏から具体案を得た場面には、「テクニカルなこと、具体的なアイディア」とだけ書いた。ここは短く書いたが、意味は大きい。省察の場は、理念の交換だけでは動かない。「子どもを見よう」「発達段階に合わせよう」で終われば、天海氏は明日も同じ授業をする。石毛氏が「短期的な目標に沿ったシークエンスの動き」「音楽やリズム」という具体的な手を出したから、翌日から変えられた。前に紹介した木原らの研究で、コロキウム中に改善提案が2件から26件に増えたという数字があったが、あれと同じことがここでも起きている。検討会の質は、抽象度ではなく具体案の数で測るべきなのかもしれない。

物足りなさも書いておく。

第一に、この論文には子どもが登場しない。著者ら自身が限界として認めているとおり、児童への聞き取りは行われていない。「もっとやりたそうにしていた」子どもが実際に何を考えていたのかは、大人たちの推測にとどまる。授業研究の焦点を「子どもの学習」に置けと繰り返し提言する論文が、子どもの声を一度も載せていないのは、次の課題へと持ち出してもいいかもしれない。媒介変数が多くなり、直接的に繋がらなくなる分、研究デザインや記述の仕方が難しくなると思うが。

第二に、データ収集期間が2か月であり、変化の追跡になっていない。天海氏は「明日から作成する」と語り、山口氏も「明日からは」と語ったが、それが実際にどうなったかは書かれていない。木原らの3年間の研究と読み比べると、差がみられる。本論文が捉えたのは気づきの瞬間であって、変化そのものではない。

第三に、これは訳出の問題かもしれないが、アンドラゴジーという枠組みが、記述に対してやや過剰に思える。Knowlesの引用が随所に差し込まれるが、その多くは「教師も大人だから自己主導的である」という一般論の確認にとどまり、この学校で実際に何が起きたのかの理解を深めてはいない。むしろ本論文の個人的な面白さは、観察者どうしの会話のなまなましさ——「見て!」「林さん、この問題を検討会に持ち込んでもらえますか?」——にある。理論の外套を薄くしたほうが、この記録は強く読めたのではないか。

現場への示唆を一つに絞るなら、こうなる。研究授業で「その種目が得意な先生」に授業者を頼むとき、私たちは無意識に、教材化の難しさを最も抱える人を選んでいる可能性がある。だからこそ、その先生には種目の助言ではなく、翻訳の助言が要る。石毛氏が天海氏に返したのが「ハードルの跳び方」ではなく「音楽とリズム」だったことに、その全部が表れている。


元論文情報

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