ノルウェー内陸応用科学大学のラーシュ・ビョルケ氏、オスロ・メトロポリタン大学のオイヴィン・スタンダル氏、ノルウェー内陸応用科学大学のケルスティ・モーダル・モーエン氏が、『Sport, Education and Society』第26巻第8号(2021年)に発表した論文です。小学校の体育教師3人が、協同学習を導入する2年間の参加型アクションリサーチ(PAR)に関わるなかで、どのように成長し、あるいは成長が止まったのかを追っています。
研究の背景と目的
教員研修、英語でいう継続的専門能力開発(CPD)について、「どうすれば効果があるのか」という研究はたくさんあります。ただ、その答えはいまだに揃っていません。そこでアーマーら(2017)は、効果のあるモデルを探す競争に走る前に、そもそも効果的とはどういうことかを問い直すべきだと提起しました。よりどころにしたのが、ジョン・デューイの「教育とは成長である」という考え方です。
デューイにとって、成長には終着点がありません。ある目標に達したらそこで完了、という捉え方そのものを彼は退けます。経験は次の経験の条件をつくるので、ある経験が次の学びへの意欲や適性を広げるなら教育的であり、逆にそれを狭めるなら、たとえ楽しく有意義な経験であっても非教育的だ、ということになります。
この枠組みを使って、本研究は二つの問いを立てました。3人の体育教師は、長期にわたるPARによるCPDへの関与をどのように体験したのか。そして、その体験は彼らの発展と成長を、どのように促し、あるいは妨げたのか。
方法
舞台は、ノルウェーの平均的な規模の小学校(仮名フォレスト・スクール)です。体育は男女共学で、週に90分1コマ、または45分2コマ行われています。対象となったのは、高学年を担当する男性の体育教師3人(いずれも仮名)。デイヴィッドとオーレは教職経験がそれぞれ1年と2年、エリックは25年以上という構成です。3人とも、体育の授業で協同学習を使った経験はありませんでした。なお、オーレは担当変更のため2年目には参加していません。
筆頭著者は、協同学習の研修と専門知識をもつ立場からファシリテーターを務めました。小学校の体育教員を6年経験したのち、2013年に教員養成に移った人です。研究者が外から評価するのではなく、教師とともに設計し、議論の場をつくる役割を担っています。
介入は2年間で、9回のワークショップと4回の介入期間(各6授業)で構成されました。ワークショップでは協同学習の理論を共同で検討し(全回)、授業計画を立て(2・4・6・8回目)、終わった介入期間を評価して振り返りました(3・5・7・9回目)。協同学習のモデルは、肯定的相互依存、対面での促進的相互作用、個人とグループの責任、対人スキルと小グループのスキル、グループでの振り返り、という五つの原則で構成されています。
データは、旅路の4つの時点で行われた教師へのインタビュー、9回のワークショップの録音、そして筆頭著者の省察日記およそ100ページです。分析はブラウンらの6段階モデルにしたがい、教師ごとに時系列で整理されました。
結果
教育的なCPD体験としてのPAR
まず浮かび上がったのは、過去の研修経験が壁になるということでした。25年の経験をもつエリックは、大学のセミナーや講座といったCPDを、上から降りてきて文脈から切り離されたものとして繰り返し体験してきました。彼はこう語ります。
ノルウェーの学校では、私の経験上、新しい理論や考え方が上層部から押し付けられることが多い。[…]理論と、それに情熱を注ぐ人物が提示される。それきりだ。実践でどう活かすかについての支援はなく、それを自分なりに消化する時間も与えられない。
インタビュー中(本論文より)
こうした経験の積み重ねから、エリックは「CPDは自分には関係がない」「行う価値がない」という信念をもつに至っていました。これはエリック個人の特異な話ではなく、学校のスタッフにほぼ共有された認識だったといいます。経験の質は過去の経験に形づくられる、というデューイの指摘が、そのまま現れた形です。
一方で、PARの経験はこの信念に揺さぶりをかけました。外部の専門家と一緒に考える時間と場が確保されたこと、理論を時間をかけて実践に翻訳できたこと。教師たちはこれらを、従来の研修との違いとして語っています。
「効果」と「代償」を伴う協同学習の体験
2つ目の介入期間は、教師たちの言葉で「大success」でした。生徒が互いに学び合い、クラスの雰囲気も変わった。初年度を終えた時点で、3人とも協同学習には効果があると評価しています。
ところが、この成功が次の問題を生みます。エリックはこう述べました。
今や『ストック』ができているから、今後は単に生徒の興味を引き出せばいい。[…]プロジェクトが終わって去った後も、毎年繰り返し使えるものなんだ。
インタビュー後(本論文より)
授業計画が「長く持ち続けられるもの」になり、写真どおりに再現すれば同じ成功が保証される、と考えられるようになった。著者らは、ここで教師たちが完成の段階に達したと信じたために、さらなる発展への意欲が限定的になったと分析します。より生徒中心に、という目標を達成してしまったがゆえに、その先の発展が「必要ない」だけでなく「不可能」にもなってしまった、というわけです。
同時に、成功には代償もありました。多くの時間と集中力と献身が必要で、教師たちはときにフラストレーションを感じ、続ける意欲が薄れることもあった。第1単元では、教師の役割が従来の教え方と大きく変わることへの不快感やストレスがあり、生徒の側も互いから学ぶことに苦労して、協同学習に否定的な態度を示す者が少なくありませんでした。
誤った教育体験の再構築
2年目に入ると、様相が変わります。1年目は6回連続の授業で特定の一つのやり方に限定されていたのに対し、2年目は屋内・屋外・雪といった幅広い状況で、ダンスの振り付けづくりや雪の城の建設など異なる課題と目的に協同学習を使うことになりました。
すると、「普段は集団に溶け込むことにかなり苦労している生徒が、突然グループに受け入れられ、成果を得ている」といった個別のエピソードが語られるようになります。計画にかかる時間も減りました。1年目は数時間かかった計画が、2年目は各60分程度で済むようになっています。不安と不確実感が薄れ、見通しがついてきた。
デューイの言う経験の継続的な再構築が、ここで起きています。一つのやり方で実践した経験と、別のやり方で実践した経験とが相互作用することで、「数多くの課題を見る」のではなく「数多くの可能性を見る」ことにつながった、と著者らは書いています。
さらなる発展と成長——三者三様の道
プロジェクトの最中は「浮き沈み」という共通の経験を共有していた3人ですが、介入期間が終わったあとの道は、それぞれ違いました。
エリックは、教師としての行動様式が根本から変わったと語ります。「もう以前の状態には戻らない。以前は私が指導者であり、活動を始め、やり方を示す側だった。[…]教師として、本当に変わったのだ」。彼はプロジェクト外でも協同学習で新しい授業を開発し、他教科でも試し始めました。1年後のフォローアップでは、次の授業を考えるたびにまず協同学習が使えるかを検討することから始めるようになった、と述べ、介入以外の授業の30パーセントを協同学習で行ったと見積もっています。2年前は「より生徒中心の指導」という目標を達成したと語っていた人が、1年後には、成長し続けること以外に特定の目的をもたない「学習者」になっていた、と著者らは書きます。
デイヴィッドの道は少し違いました。プロジェクトは「極めて価値ある学習の場」であり、協同学習は「サッカーを教えることへの恐怖を克服する」助けになった。生徒を「対象」から「互いの学習に貢献し合える主体」へと見方を変えたとも語っています。しかし彼は、終われば授業の大部分は「また通常どおり」になるだろうと予測し、1年後、実際にそうなりました。伝統的な授業の終盤にグループディスカッションを入れるなど、断片的な活用にとどまっています。著者らは、デイヴィッドの経験は理論のレベルでは教育的だったが、実践のレベルでは現状を強化した点で非教育的だった、と評価しました。
オーレは1年目で離脱せざるを得ませんでしたが、その後も成長が続いていました。「最も単純な遊びの授業」でさえ違う視点で考えられるようになったと語り、3年生のクラスで新しい授業を考案していたといいます。理由は、正式には参加していなくてもエリックと緊密に協働し続けていたことでした。
考察と結論
著者らの結論は、やや厳しいものです。プロジェクト全体として、エリックにとっては教育的であり、デイヴィッドにとっては非教育的だった、と彼らは書きます。CPDを通じた教師の成長は、信念に反映されるだけでは足りない。行動に反映されなければならない。なぜなら、生徒の成長のための条件を改善することが、常にCPDの核心でなければならないからだ、という理屈です。
そして、もっとも示唆的なのが次の指摘です。協同学習のような教育介入が成功した経験でさえ、デューイの教育観に照らせば問題を含みうる。教師たちが協同学習を「機能する」ものとして体験し、完成の段階に達したと信じたために、さらなる発展への意欲が限定的になったからです。変革に伴う「代償」を体験したことが、それをさらに強めました。
PARは、新しい教育アプローチを導入する初期の課題を越えるには効果的な手法である。しかしデューイの観点からは、PARの経験が必ずしも教育的であるとは限らない。これが著者らの主張です。
限界として、著者らは、教育がきわめて複雑な取り組みであり(クエンナーシュテット、2019)、教師の学習の道のりがどこへ向かうかを予測するのは難しいことを認めています。対象は一つの学校の3人であり、一般化を意図したものではありません。また、筆頭著者がファシリテーターと研究者を兼ねている点も、データの解釈に影響しうる条件です。
専門家コメント
読みながら、何度も自分の経験に重なった。
研修が届かないのは、どのレベルの問題か
まず、過去の研修経験が次の学びを阻害するという指摘である。研修は上から降りてきて、理論と、それに情熱を注ぐ人物が提示され、それきりになる。だからCPDは自分には関係がない。この感覚は、日本でもめずらしくないと思う。ただ、これがどのレベルの問題なのかは、もう少し分けて考えたい。研修の内容が現場に適合していないという問題なのか。研修を提供する側と受ける側の権威関係の問題なのか。それとも、聞いたあとに試す機会がないという問題なのか。おそらくどれも効いているが、打つ手はそれぞれ違う。
阻害を解いたのは、共に議論する場だった
本研究が示しているのは、この阻害を解くのが、外部の専門家と共に議論する時間と場だったということである。理論を渡されて終わりではなく、一緒に計画し、やってみて、戻ってきてまた話す。そのくり返しのなかで、教師の行為主体性が立ち上がってくる。この過程そのものが、本論文のもっとも大事な発見だと私は読んだ。
成功が、発展を制限する
もっとも考えさせられたのは、成功経験の扱いである。協同学習がうまくいったこと、それ自体は喜ばしい。しかし、うまくいった授業の完成イメージができてしまうと、そこで止まる。本論文は、成功が発展を制限しうることを、具体的な事例として示した。学びとは本来、動態である。完成を迎えたと感じたところで停滞すれば、CPDはそこから発展しない。
継続には苦痛が伴う
継続には苦痛が伴うという点も、正直に書かれていてよい。教師にとっても生徒にとっても、新しい学習は葛藤を生じさせる。しかも、一つ乗り越えると次の苦悩が来る。おそらく、そのくり返しなのだろう。2年目に入って不安が薄れ、見通しがついてきたという記述は、その長さを示しているように思う。
成長のしかたには多様性がある
3人の道が分かれたことも示唆的である。授業観や教師観が変わった人、考え方は変わったが実践は変わらなかった人、そして正式には離脱したのに同僚との協働を通じて成長が続いた人。成長のしかたには多様性がある。とりわけ、考えは変わったのに実践は変わらなかったという事例は重要だと思う。研修の成果を信念や意識の変化で測ることの危うさが、ここに出ている。
ローカライズという作業
協同学習のモデルをそのまま持ち込むのではなく、自分の学校の状況に合わせて作り変えていく作業、いわばローカライズの作業が必要になるという点も、私の調査でも同様のことがよく起こっている。
研究者がどう関わるか、という設計
最後に、これは教員養成に関わる者としての関心でもある。長く関わり続けることでしか起きない変化があるのだとすれば、研究者が現場にどう関わるかという設計そのものが、研究の一部になる。本論文の筆頭著者がファシリテーターを兼ねていることは、方法上の制約であると同時に、その設計の表明でもあるのだろう。
元論文情報
- タイトル:‘You can lead the horse to water, but you can’t make it drink’: three physical education teachers’ professional growth through and beyond a prolonged participatory action research project
- 著者:Lars Bjørke, Øyvind Førland Standal, Kjersti Mordal Moen
- 掲載誌:Sport, Education and Society, 26(8), 889–902
- 発行年:2021年
- DOI:10.1080/13573322.2020.1799781


コメント