語り合い、気づきが生まれる|The potential of Lesson Study in primary physical education: Messages from a longitudinal study in Japan

2020年〜2024年

小学校の体育は、担任教師が教えている。そして担任教師の多くは、体育の教科内容についての知識に自信がなく、否定的な態度をもつことさえあると、国内外の研究が長年指摘してきた。ではどうするか——これまでの答えは、短期の校外研修だった。単発で、あらかじめ用意された教材があり、フォローアップはない。その効果が乏しいことも、同じくらい長く指摘されてきた。

本稿で紹介するのは、木原成一郎(広島大学)、Mike Jess・Paul McMillan(エディンバラ大学)、大瀬戸一樹(広島大学)、久保研二(島根大学)、中西紘士(環太平洋大学)が European Physical Education Review 誌の2021年第27巻第2号に発表した研究である。日本のある小学校で3年間・9回にわたって行われた体育の授業研究(Lesson Study)を、教員30名とともに追跡した縦断研究であり、日本の授業研究の可能性を国際誌に向けて提示したものである。

この記事の要点

  • 日本の小学校で3年間・9回の体育の授業研究を教員30名とともに追った縦断研究。6グループに担当児童を割り当てるという設計上の一手が、教師の視点を「授業者を見る」から「子どもを見る」へ移した。
  • 体育館と教室の境界を越えて知が往復した。著者らは「体育館を教室として再解釈する」と書くが、私は逆に「教室が体育館によって再解釈された」ことに、この論文の面白さを見る。
  • 協議会の質を上げたければ、進め方を変える前に「誰が誰を見るか」を決めておくこと。一方で、付箋の増加を省察の深まりと読むのは踏み込みすぎで、うまくいかなかった教師が出てこない点は物足りない。

詳しい検討は 専門家コメント に書いています。

研究の背景・目的

著者らはまず、小学校体育の専門性向上をめぐる長年の困難を整理する。教科内容知識の不足が教師の自信の低下につながり(Faucette et al., 2002; Morgan & Bourke, 2008)、何を教えているのかという疑問を生み(DeCorby et al., 2005)、体育への否定的な態度も報告されてきた(Portman, 1996)。ArmourとDuncombe(2004)の言葉を借りれば、小学校体育は「教員に対する充実した専門能力開発が最も必要とされる段階」である。

にもかかわらず、実際に提供されてきたのは頻度が低く、短期で、単発で、校外で行われる研修だった。これらは教師のこれまでの経験を無視し、学習のプロセスではなく「即効性のある」成果に焦点を当てる。Harrisら(2011)は、イングランドのTOPSプログラムについて、一定の効果はあったものの期間の短さ・既製教材への依存・フォローアップの欠如が有効性を制限したと結論づけている。

これに対して、ニュージーランドのPetrie(2010)やスコットランドのCampbell & Jess(2012)は、長期的・文脈依存的・協働的なプロジェクトの可能性を示してきた。ただしスコットランドの事例では、多くの教師が自校の同僚がもつ伝統的な体育観を変えられず、学校のなかで孤立感を訴えたという報告もある。

そこで著者らが持ち出すのが、19世紀後半から日本で発展してきた授業研究(Lesson Study)である。齋藤(2012)に従えば、授業研究には新しいカリキュラムを普及させるトップダウン型と、集団による観察と省察を通じて実践を変革するボトムアップ型の二つの系譜がある。本研究が注目するのは後者、なかでも次の2点である。

  • 教員集団が自校の中で、一定期間にわたって協働すること——短期・校外・即効性重視の研修からの決定的な転換
  • 授業後のコロキウム(検討会)——観察について集団で省察し、新たな理解を深める場

稲垣と佐藤(1996)はこの省察的プロセスを、教室や学校を「談話共同体」として再概念化する中心的特徴と捉えた。著者らは、この長期性・文脈依存性と、コロキウムにおける反復的な省察の機会こそが、担任教師の体育観とアプローチを変えうると主張する。

方法

調査は2014年初頭から2016年末にかけて、人口約100万人の都市郊外にあるさくら小学校(仮名、児童521名・教職員51名)で行われた。参加者は同校の教員30名、市の体育指導員、そして教員教育者である筆頭著者である。校内の授業研究コーディネーターは同校教員のタロウ先生(仮名)が務めた。

3年間で9回の授業研究が実施された(2014年4月の導入講義に続き、研究授業+コロキウム、公開研究授業、講義とディスカッションを組み合わせた構成)。本論文が報告するのは、第7ラウンド(2016年4月)と、プロジェクト終了後のフォーカスグループ・インタビューである。参加者が少なくとも2年間このプロジェクトに携わった後のデータであることに、著者らは意味を見出している。

第7ラウンドの研究授業は、教職8年目・30歳のタロウ先生が6年生30名に対して行った、バレーボールに似たルール改変型のネット型ゲームである。ねらいは、参加・公平性・学習への関与を高めるために児童自身がゲームにさらに改良を加えることだった。授業中、タロウ先生は児童を観察し、時折活動を止めて各グループに問い返した。他の29名の教員は体育館の周辺に留まり、6グループに分かれてそれぞれ少人数の児童を担当して観察した。

データ収集は3つの場面で行われた。

研究授業の観察。教員はKJ法(川喜田, 1967)に着想を得た方法で、観察を色分けした付箋に書き出した。良い点は黄色、あまり良くない点は青色、改善提案はピンク色。6つの観察グループはそれぞれA0サイズの授業計画書を体育館の壁に掲示し、計画書の該当箇所に付箋を貼っていった。重要なのは、「良い/良くない」の基準が事前に与えられず、各教員が自分で決めた点である。その基準自体が、後のコロキウムで議論の対象となった。

コロキウム。授業後、教員は体育館に残り、(1) A0の計画書に戻って付箋を見直し議論する、(2) 各グループの代表が全体に発表する、(3) 終了直後に各自が振り返りテンプレートに新たな気づきを記録する、という3段階を踏んだ。6グループの議論はすべて音声録音された。

フォーカスグループ・インタビュー。3年間のプロジェクト終了時に、1年生から6年生までの学年層を代表するよう意図的に選ばれた4名(タロウ先生、フィールド先生、ハナコ先生、ピース先生)に約1時間実施された。

分析は、付箋の量的分析(コロキウム前後の件数比較)、付箋の質的分析(KJ法による親和図法)、コロキウムの会話とインタビューの質的分析(Charmazの帰納的分析5段階)の3方法で行われた。日本語データは3段階の翻訳・校正プロセスを経て英語化されている。

結果

1.コロキウム経験の長期的・反復的な影響

フォーカスグループで参加者が繰り返し語ったのは、過去のラウンドとの比較だった。3回目の研究授業者となったタロウ先生の証言である。

今回の[第7ラウンドの]コロキウムでは、初年度に比べて、より有意義な考察や深い議論ができたと思う……[第1ラウンドでは]問題点や良い点について大まかな見方しかできていなかった。それらがなぜ良いのか悪いのか、解決策が何なのかについて、明確な考えを持っていなかった。しかし今年は、より多くの教師が……私がもっとうまくできたはずのことについてアイデアをくれた。

変わったのは議論の深さだけではない。改善提案に根拠を示せるようになったのである。さらにタロウ先生は、コーディネーターと参加者の関係の変化を指摘する。

今年は、授業コーディネーターと参加者の双方が共に解決策を熟考していたため、より質の高い議論ができた。一方、過去2年間は、私たちコーディネーターが単にアイデアを提示するだけだった。

参加者は受動的な受け手から、主体性を発揮する立場へと移行した。著者らはこれを、KeayとLloyd(2011)が批判した単発・短期の「コース」を超える証拠と位置づけている。

2.省察的かつ協働的な学習の場としてのコロキウム

第7ラウンドで作成された付箋は合計192件。内訳は次のとおりである。

 授業観察中コロキウム中合計
肯定的なコメント4278120
あまり好意的でないコメント113344
改善提案22628
合計55137192

授業を見ながら書かれたのは55件。コロキウムの最中に137件が追加された。とりわけ改善提案は2件から26件へと跳ね上がっている。コロキウムが、教師に「授業についてより詳細に省察するための時間を確保できる場」を提供したことを示している。

内容面では、議論は(1) 授業の計画と改善案、(2) 授業中の児童のパフォーマンス・参加度・学習状況、(3) 授業中に用いられた指導アプローチ、という3つのテーマに集中した。注目すべきは、同じ事柄が「肯定的」「あまり良くない」「改善の可能性」の3カテゴリーすべてに現れたことである。たとえばフィードバックについて、教員たちはそれを授業の良い点でもあり、必ずしも良いとは言えない点でもあり、今後の改善点でもあると述べた。一つの事象を複数の視点から捉える力がついていたのである。

3.学習者を観察することで、教師自身を「観察」する

コロキウムを通じて教師たちが認識したのは、子どもを見続けることが、教師自身と自らの指導について洞察を得るために不可欠だということだった。

1年生担任グループは、児童の観察からタロウ先生の指導の限界を明らかにしている。授業計画にはゲームの目的が「全員が参加すること」と書かれていたのに、授業でそれが共有されなかった。だから「ボールに触れた回数を数える」活動がうまく機能せず、児童のあいだに混乱が生じた——児童の行動の観察が、教師の指導言のなかの「言われなかったこと」を可視化したのである。

逆の例もある。2年生担任グループの議論である。

「1バウンドルール」という提案は……[一見すると]教師の発案のように見えたが、元々は……生徒たちから出たものだった。教師は単に生徒たちの提案を取り入れただけだ。……[教師がそれに対応した方法]については、これは良い点だったと考えている。

児童がラリーを長く続けるために自ら考え出したルールを、タロウ先生が受け入れ、授業のなかで指導を調整した。参加者たちはこれを「優れた」指導実践の特徴として捉えた。子どもに注目したからこそ見えた、教師の行動の微妙なニュアンスである。

4.体育館を「教室」として再解釈する

もう一つの重要な変化は、担任教師たちが体育を確かな学びの場として捉え始めたことである。ハナコ先生の言葉。

体育の授業でこのバレーボールの単元を指導している間、実は自分の教室や、学習の規律を含む教室運営について考えていたことに気づいた……このレッスンスタディ全体を通じて、私は体育指導の内容だけでなく、自分の教室の構造やルールについても見直す機会を得たのだ。

注目すべきは、教室の知を体育に持ち込むだけでなく、体育で得たアイデアを教室に持ち帰っている点だと著者らは指摘する。フィールド先生はさらに踏み込む。

授業を組み立てる構造はすべての教科に共通していることが分かったのは重要だった。体育の授業を作るにせよ、他の教科の授業を作るにせよ、本質的には変わらない。……その構造は生徒がどのように物事を学ぶかに基づいているのだ。

7回の授業研究を経て、参加教師たちは自らの教室での実践と体育との間に共通点を見出し始めた。学習者と学習過程に注目することが、教科領域を横断する関連性の認識につながった。著者らはこれを、小学校における体育の周縁性を指摘し続けてきた既存文献と「著しく対照的」な知見として提示する。

考察のポイント

著者らが強調するのは、授業観察の位置づけの転換である。従来型の観察は、指導そのもの・内容知識の提示・教室運営を前面に出し(Grimm et al., 2014)、不定期で、教員の能力評価に偏り、焦点が事前に定まっていないためにしばしば不安と恐怖を引き起こす(Donaldson, 2016)。

対して授業研究は、観察を学校生活の定期的な要素にすることで、それをまったく別の位置に置き直す。協働的な授業計画と探究の共通焦点が、観察への恐怖を和らげる(Dudley, 2015)。そしてコロキウムが、そこで行われている学習と、それを促す指導アプローチについて理解を深める省察の場となる。

結論部で著者らは、授業研究が担任教師の体育指導における能力・自信・意欲に肯定的な影響を与えうると論じ、世界中の教員養成担当者に向けて、自国の小学校体育の専門能力開発に授業研究を導入するよう呼びかけている。ただし、短期集中型が主流である現状からの転換には時間がかかることも率直に認めている。

まとめ

  • 日本の小学校で3年間・9回の授業研究を、教員30名とともに追跡した縦断研究である。
  • 第7ラウンドで書かれた付箋192件のうち、137件(約7割)は授業の後のコロキウムで生まれた。とくに改善提案は2件から26件へ。
  • 参加者は受動的な受け手から、根拠を示して提案する主体へと変化した。
  • 子どもを観察することが、教師自身の指導を可視化した(指導言の欠落も、即興的な受け止めも)。
  • 担任教師たちは体育と教室の授業に共通の構造を見出し、体育で得た知を教室に持ち帰るようになった。
  • 授業研究は、観察を「評価」から「共同探究」へと位置づけ直すことで、観察への恐怖を和らげる。

専門家コメント

この論文を読みながら、私がハイライトを引いて書き込んだのは4か所である。順に辿っていくと、自分がこの研究の何に価値を見出したのかがはっきりする。

まず、コロキウムを通じて教師たちが子どもを継続的に観察する機会を認識していった、という記述に「視点の拡張」と書いた。これは些細なことのようで、実は本論文の核心である。授業を見るという行為は、放っておけば「授業者を見る」行為になる。私自身、研究授業の協議会で、話題が最初の10分で授業者の発問の是非に収束していく場面を何度も見てきた。Saitoら(2008)が指摘するとおり、授業研究に不慣れな教師ほど指導法に目が向き、子どもには向かない。本研究が優れているのは、6グループそれぞれに担当する少人数の児童を割り当てたという設計上の一手にある。見るべき対象を教師から子どもへ物理的に移す。この一手がなければ、3年かけても視点は拡張しなかっただろう。

次に、「1バウンドルール」の場面に「授業が協働構築された瞬間」と書いた。ここは何度も読み返した。児童がラリーを続けるために自ら考えたルールを、タロウ先生が受け入れ、授業のなかで指導を調整する。ここまでなら、よくある「子どもの意見を取り入れた授業」の話である。この論文が捉えたのは、その瞬間を教師集団が「見抜いた」ということのほうだ。2年生担任グループの言葉——「一見すると教師の発案のように見えたが、元々は生徒たちから出たものだった」——この「一見すると」に、観察の質のすべてが表れている。授業を外から一度見ただけでは、教師が仕込んだのか、子どもが出したのか、区別がつかない。子どもを追い続けていたから、起源が見えた。

そして、その見抜いたものを教師たちは「優れた」指導実践の特徴と評価した。ここが決定的だと私は思う。協働構築は、起きたときに誰かがそれを名指さなければ、実践知として残らない。タロウ先生本人ですら、その瞬間を「良い指導」として言語化できていたかどうかは怪しい。観察者集団が名指したことで、それは初めて共有可能な知識になった。これは、私が関心をもっている協同学習や情動と行為主体性の問題とも重なる。行為主体性は行為者の内側だけで完結せず、それを承認する他者の視線によって事後的に成立する側面がある。この論文の第7ラウンドで起きたのは、まさにそれだ。

三つ目に、ハナコ先生の「体育の単元を指導している間、実は自分の教室や学習の規律を含む教室運営について考えていたことに気づいた」という発言に、「学びが転移したとき」と書いた。四つ目に、7回を経て参加教師が自らの実践と体育の共通点を見出し始めたという記述に、「横の広がりに関する学び」と書いた。この二つは対になっている。

私がここに強く反応したのは、これが越境(boundary crossing)の教科版だからである。小学校の担任教師にとって、体育館と教室は物理的にも文化的にも別の場所である。服装が変わり、声の大きさが変わり、子どもの立ち位置が変わる。多くの担任教師にとって体育は「教室での自分」を一度脱いで臨む時間であり、だからこそ苦手意識が生まれる。この論文が記録したのは、その境界を越えて知が往復し始めた瞬間だ。しかも一方通行ではない。ハナコ先生は体育で得たものを教室に持ち帰っている。フィールド先生に至っては「授業を組み立てる構造はすべての教科に共通している」と言い切っている。

越境研究の枠組みで言えば、境界は障害であると同時に学習資源である。異質な二つの実践のあいだに置かれたとき、人はそれぞれの実践を相対化して見る言葉を獲得する。この論文の教師たちは、体育という「異質な場」を経由することで、自分が普段の教室でやっていることを見直す視点を手に入れた。専門能力開発として見たとき、これは体育の力量が上がった以上の出来事である。体育が、他教科を含む授業観そのものを問い直す装置として機能した。著者らは「体育館を教室として再解釈する」という表現でこれを記述しているが、私はむしろ逆——教室が体育館によって再解釈された——のほうが、この論文の面白さを言い当てていると思う。

そのうえで、物足りなさも書いておきたい。

第一に、付箋の色分けである。良い点は黄色、あまり良くない点は青色、改善提案はピンク色。この設計自体は明快だが、結果として「同じ事柄が3カテゴリーすべてに現れた」ことを、著者らは多様な視点の獲得として肯定的に解釈している。私はここに疑問が残る。フィードバックが「良い点でもあり、良くない点でもあり、改善点でもある」というのは、視点が豊かになったということなのか、それとも評価軸が定まらないまま議論が拡散したということなのか。この論文のデータだけでは判別できない。基準を各自に委ねたという設計上の判断は、初期には有効だったはずだが、7回目に至ってなお基準が共有されていないのだとすれば、それは成果というより課題ではないか。

第二に、付箋の増加をどう読むかである。コロキウム前55件、コロキウム中137件。この数字は確かに印象的で、私もアイキャッチにこの前後比較を使った。だが冷静に考えれば、授業を見ながら書く時間と、座って話し合いながら書く時間では、そもそも書ける量が違う。体育館の周辺に立ち、担当する児童を目で追いながら書ける付箋の数には物理的な上限がある。この差の何割が「省察の深まり」で、何割が「書く条件の違い」なのか、論文は区別していない。改善提案が2件から26件へという変化は確かに質的な意味をもつと思うが、総数の比較だけを根拠に「コロキウムが省察の場として機能した」と言うのは、やや踏み込みすぎだろう。

第三に、これは無い物ねだりに近いが——この論文には「うまくいかなかった教師」が出てこない。登場するのはタロウ先生、フィールド先生、ハナコ先生、ピース先生の4名で、いずれもフォーカスグループに選ばれた人たちである。30名のうち残り26名がどう変化した(あるいはしなかった)のかは、付箋の総数に溶けている。私が前に紹介したLuguettiらの研究やCaseyとMacPhailの研究が読ませたのは、まさにその「うまくいかなさ」だった。3年間・9回という設計に耐えられなかった教師、コロキウムで発言できなかった教師は、いなかったのだろうか。日本の授業研究を国際誌に向けて提示するという本論文の目的からすれば、成功の側面を前に出す判断は理解できる。だが、日本の読者にとって価値があるのは、むしろその裏側のほうである。

ただ、この論文が日本の授業研究について国際的に主張していることには、素晴らしい。国際誌に出すことが1つの大きな目標になっている私にとっては憧れの対象である。とくに、観察を「評価」から「共同探究」へと位置づけ直すことで、観察への恐怖が和らぐという指摘は重要である。Donaldson(2016)が言うように、不定期で、能力評価に偏り、焦点の定まらない観察は不安を生む。日本の授業研究が持っている最大の強みは、方法論の精緻さではなく、「見られること」が日常であるという文化そのものにある。そしてこれは、私たちが当たり前だと思っているために、これまで十分に言語化してこなかったものでもある。

現場への示唆を一つに絞るなら、こうなる。研究授業で協議会の質を上げたければ、協議の進め方を変える前に、誰が誰を見るかを決めておくこと。本研究が6グループに児童を割り当てたように、観察の対象を先に配分してしまえば、協議は自然と子どもの話から始まる。授業者の是非をめぐる議論に流れるのは、参加者の意識が低いからではなく、見るべきものが指定されていないからだ。


元論文情報

  • タイトル:The potential of Lesson Study in primary physical education: Messages from a longitudinal study in Japan
  • 著者:Seiichiro Kihara(木原成一郎), Mike Jess, Paul McMillan, Kazuki Osedo(大瀬戸一樹), Kenji Kubo(久保研二), Hiroshi Nakanishi(中西紘士)
  • 掲載誌:European Physical Education Review, 27(2), 223–239
  • 発行年:2021年
  • DOI:10.1177/1356336X20932950
  • URL:https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/1356336X20932950

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