研修は受けた。効果も理解している。授業が終わったあとに子どもの集中が戻ってくることも、実感として知っている。それでも、六週間のあいだ、授業はほとんど変わらなかった。ドイツの中等学校の教員13人に聞き取った研究が描き出したのは、そういう風景である。
ハンブルク大学のTjari Klimpki、Claus Krieger、Katrin Steinvoordが2026年に『Frontiers in Education』で報告した研究で、身体活動を教科の授業に組み込む「身体活動型学習(physically active learning、以下PAL)」が、なぜ中等学校では広がらないのかを、教員自身の語りから探っている。知識が足りないから実施されないのだ、という説明が通用しなかったところが、この研究のいちばん面白いところである。
この記事の要点
- 利点は十分に理解されていた。それでも実施を左右したのは、拒否されることへの恐れとコントロールを失う不安のほうだった。
- 知識と実施のあいだには、何かが挟まっている。両者は直線でつながっているのではなく、動的な関係にあると考えたほうがよい。
- 体育を教えてきた経験が、他教科の授業でも効いていた。教科内容の知識としてではなく、ゆるい学習環境を構造化する力として効いている。
詳しい検討は 専門家コメント に書いています。
研究の背景・目的
PALは、すべての教科の授業に身体活動を組み込むことを指す。この研究は、それを二つに区別する。ひとつは「動きを伴う学習(learning with movement)」で、動きの休憩、身体を動かす指導方法、教室の外など別の場所での学習といった、活動そのものが教科内容と直結していないものを指す。もうひとつは「動きを通じた学習(learning through movement)」で、身体を使って教科内容を探り、理解を深めるような課題を指す。階段の高さを測って登る時間を計り、数学の課題に結びつけるようなものがこれにあたる。
PALの効果自体は先行研究で繰り返し示されてきた。それにもかかわらず中等学校では広がらない。教員は「自分にはその力量がない」ことを理由に挙げることが多い。そこで著者らは、Kunterらの職能モデルを下敷きに、文脈的条件、個人的特性、コンピテンスの三つの水準から、実施を左右する要因を教員の視点で捉えようとした。中等学校の教員を対象にした研究はほとんどなく、既存の知見の多くは小学校のものである、という指摘がこの研究の出発点になっている。
方法
2.5時間の研修を三回、同じ内容・同じ進行で実施し、計56人の教員が参加した。研修はPALの効果と主要な側面の説明、動きの休憩や身体を動かす指導方法の例示、自分の担当教科の題材で「動きを通じた学習」の課題を設計する演習、その発表という四つの段階で構成されている。短い導入的な介入として意図的に設計されたもので、包括的な実施プログラムではない。
研修後、六週間にわたって各自の教科の授業でPALを試みることが促された。その期間の終了後、志願した13人にガイドラインに沿った個別インタビューを行い、質的内容分析で整理している。担当教科は数学、物理、英語、ドイツ語、音楽、生物、フランス語、歴史、舞台芸術、心理学、体育など幅広い。インタビューは研修そのものではなく、教員自身の授業と、それをめぐる認識に焦点を当てている。
結果
実施されたのは、ほとんどが「動きを伴う学習」だった
教員が実際に取り入れたのは、動きの休憩のような「動きを伴う学習」に大きく偏っていた。「動きを通じた学習」はほとんど使われていない。理由は、時間、準備の負担、そして終わりの開かれた学習場面を運営することへの不安である。ある教員は、動きを取り入れた休憩は簡単だが、動きを通じた学びを意味のある形で授業に組み込むのは、はるかに難しいと気づいた、と語っている。
著者らはここを、既存の授業のルーティンを崩さずに済む形が選ばれている、と読んでいる。「動きを通じた学習」は、教師の役割、教室の権限、授業の構成そのものを組み替えることを求めるからである。
認識された利点
教員が挙げた利点は、集中力の向上、教室の雰囲気の改善、教科学習の深まりである。身体を動かしたあとに生徒が再び授業に集中できるようになる、という実感が繰り返し語られた。加えて、教員と生徒の関係が強まること、生徒のその教科に対する見方が良くなることも挙げられている。スポーツが得意な生徒が、動詞の活用をうまく習得できていなくても、勝てたことや速く走れたことで達成感を得て、フランス語がそれほど嫌ではなくなってくる、という語りが紹介されている。
語られた懸念
中等学校に特徴的なのは、生徒に拒否されることへの恐れである。ある教員は、生徒たちはやってくれないだろうし、「バカげている」とか「くだらない」と思うだろう、特に6年生の終わり頃になると、彼らはもう『クール』になっている、と語っている。小学校を対象にした研究では、規律や気恥ずかしさをめぐる問題はここまで前面に出てこない。もうひとつの懸念はコントロールの喪失で、生徒が立ち歩いて互いに話していると全員の注意を引くのに労力がかかる、座っている方が管理しやすい、という語りが並んでいる。
成功の条件
うまくいった教員が挙げた条件は、信頼関係があること、ルーティンが段階的に確立されていること、そして責任の所在が明確であることの三つである。とくに「動きを通じた学習」では、身体を動かす時間のあいだに必ず結果を出させ、あとで発表させる。ただ走り回るのではなく、階段の高さを測り、登る時間も測らせる。そうすることで説明責任が生まれ、生徒が学習課題から離れてしまう可能性が下がる、という説明である。
経験が、適合性の判断と自己効力感をつくっていた
教員がそれまでに学習グループと積み重ねてきた経験が、極めて大きな影響を及ぼしていた。その経験にもとづいて、PALとこの生徒たちとの相性が判断され、それが実施の意欲に直接つながっている。否定的な経験をもつ教員は再挑戦の意欲が低くなり、特定のクラスでの肯定的な経験は継続の意欲を高める。また、体育を指導しているかどうかがPALの導入に影響を与えることも示された。
考察のポイント
著者らの結論は、職能とその実施のあいだには直線的な因果関係があるのではなく、動的で相互依存的な関係がある、というものである。知識があるから実施されるのでも、実施したから力量がつくのでもない。実施の経験が適合性の判断を書き換え、その判断がまた次の実施を左右する。
体育の指導経験については、慎重な言い方がされている。スポーツ教育学の専門知識がPALの前提条件であるとは先行研究では示されていない。それでも、実践のなかで得られた体育の指導経験は、構造化されていない学習場面を運営するうえで支えとなる資源として働いているようだ、という書き方である。
研修のあり方についての示唆も述べられている。今回の2.5時間という短さが、開かれた学習場面を運営する方略を練習し定着させる機会をほとんど提供できなかった可能性がある。したがって研修は、PALについての反省的な信念と、文脈に固有の自己効力感を強めることに焦点を当てるべきだ、というのが著者らの提案である。
まとめ
13人の語りが示したのは、利点を知らせることが実施につながるとは限らない、という当たり前のようで扱いにくい事実である。教員はPALの効果を理解していた。それでも実施を決めたのは、生徒に拒否されるかもしれないという予想と、教室の統制を失うかもしれないという不安のほうだった。そして、その予想も不安も、それまでの経験からつくられていた。
専門家コメント
まず、重い示唆だと思ったところ
抄録を読んだ段階で、私は余白に「利点は理解されても、実施には至らなかった。懸念がまさった」と書いた。そのすぐ下に「重い示唆である。知識と実施の間には何らかの変数がある。動的な関係性」と続けている。この研究を読み終えたいまも、受け止めはそこから動いていない。
私たちは、ある指導法が良いものだと分かれば、あとは知らせればよいと考えがちである。研修を開き、効果を示し、事例を配る。しかしこの研究の13人は、すでに理解していた。集中が戻ってくることも、雰囲気が良くなることも、実感として知っていた。それでも動かなかった。理解と行為のあいだに、別の何かが挟まっている。著者らはそれを職能と実施の動的で相互依存的な関係と呼んでいるが、私にはもう少し生々しいものに見える。うまくいかなかったらどうしよう、という予想である。
本文を読み進めながら、私は何度か「やはり、相互作用的であった」と書き込んでいる。教員がそれまでに学習グループと積み重ねてきた経験が実施の意欲を左右する、という箇所には「こうした実施経験も相互作用的に実施要因に関わっている」と記した。要因が並列に並んでいるのではなく、実施が要因を書き換え、書き換えられた要因が次の実施を決めている。この構造は、おそらくPALに限らない。私は同じ頁の余白に「他の指導モデルにも応用できる」とも書いた。
次に、引っかかったところ
教員が時間と準備の負担を期待される効果と天秤にかける、という費用対効果の説明が出てくる箇所で、私は「費用対効果がよい方が生きのこることがあるのか。その意味で圧力が重要になる」と書いた。実施されるのは、良いものではなく、安いものだということになる。そうだとすれば、良さを説くことにはあまり意味がなく、負担を下げるか、やらないことの費用を上げるか、どちらかしか効かない。後者は要するに圧力である。それが教育の場で望ましいかは別として、現実に効いているのはそちらではないか、という疑いが私には残った。
もうひとつ引っかかったのは、PALが教科の学習に奉仕するものとして語られていることである。短い運動がアイスブレイクとして働き、そのあとの授業が円滑に進む、という語りのところに、私は「本プログラムのための手段的、従属的なもの、という捉え方には分かりやすいニーズがある」と書いた。分かりやすいから広まりやすいのは確かだろう。ただ、身体活動がつねに何かのための手段として位置づけられ続けるなら、それは体育が長く引き受けてきた問題と地続きである。動くこと自体に意味があるという主張は、この枠組みの中では言いにくくなる。
教員が同僚との意見交換を支えとして挙げている箇所には、「他者との交流によって何がもたらされるのか」と書いた。ここは結果としては報告されているが、何が起きているのかは説明されていない。情報が共有されるからなのか、やってみようという気持ちが支えられるからなのか、それとも、やらないと気まずいという圧力が生まれるからなのか。先ほどの疑いとつながる論点でもあり、もう少し知りたいところである。
そして、体育の側から考えたこと
体育の指導経験が構造化されていない学習場面の運営を支える、という考察に、私は「体育の指導の専門性は、学習環境の構造化に優位に働くということ」と書いた。これは体育を教える側にとって、思っていたより大きな話だと思う。体育の専門性というと、運動の技術指導や種目の知識が真っ先に想起される。しかしここで効いているのはそれではない。子どもが散らばり、動き、こちらの目が全員に届かない状況で、それでも学習を成立させる。その段取りと見取りの力である。体育教師はそれを毎時間やっている。
「動きを通じた学習」の実施が難しいという結果のところには、「体つくり運動にも通じる」と書いた。体つくり運動もまた、教科内容が動きそのものと直結していない分だけ、何をもって学習が成立したと見なすかが立てにくい領域である。今回の研究で教員が見つけた解決は、結果を必ず残させ、あとで発表させることだった。素朴だが、ここには学ぶところがある。
生徒に拒否されることへの恐れを語る箇所には、「生徒に対するイメージ・信念」と書き、その下に「これは相互作用的なものなのだろうか」と書いた。さらに「みんな、誰もが自信を失いたくない」とも記している。教員は生徒を見て判断しているつもりでいるが、その判断はこれまでの経験がつくった像であり、その像にもとづいて実施を控えることで、像を更新する機会も失われる。この循環は、協同学習のモデルでも同じことが言われている。私は該当箇所に「これは協同学習モデルでも言及されている」と書き込んだ。教員の信念が生徒の反応を先取りし、その先取りが指導の幅を狭めるという構図は、指導モデルの違いを超えて共通しているように思う。
最後に、この研究をどう受け止めたかを書いておく。13人という規模で、六週間という短さで、研修も2.5時間である。これで実施が進まなかったことを、教員の側の問題として読むのは筋が悪い。むしろ、この条件で何が起きるかを丁寧に記述したことに価値がある。そして、そこで見えたのは、知識を渡せば行為が変わるという前提が成り立たない、ということだった。日本で新しい指導法を広めようとするとき、私たちが用意しているのは、たいてい2.5時間の研修である。
元論文情報
- タイトル:Implementing physically active learning in secondary schools from teachers’ perspectives: benefits, concerns, and conditions for success
- 著者:Tjari Klimpki, Claus Krieger, Katrin Steinvoord(ハンブルク大学)
- 掲載誌:Frontiers in Education, 11: 1805646
- 発行年:2026年(2026年5月18日公開)
- DOI:10.3389/feduc.2026.1805646
- URL:https://doi.org/10.3389/feduc.2026.1805646


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