レシピが揃うほど、判断は要らなくなる|How does physical education teacher education prepare preservice teachers to make practical judgements when teaching games? A case study

レシピが揃うほど、判断は要らなくなる — 教員養成のゲーム科目における実践的判断の4つの機会 2025年〜2029年

ゲーム指導の「レシピ」は、この40年で歴史上かつてないほど揃いました。TGfU、戦術的ゲームアプローチ、戦術的決定学習モデル。指導法も学習目標も完備された既製のアプローチがあるということは、体育教師がゲームを教える準備が整ったことを意味します。しかしそれは同時に、教師がゲーム指導について自分で判断する必要も機会も減らすかもしれない。著者らは、高品質な組み立て式家具のキットを渡された大工の比喩でこの懸念を語ります。

スウェーデンのオレブロ大学のDean Barkerらが2026年にPhysical Education and Sport Pedagogy誌に発表した論文です(オープンアクセス)。哲学者Joseph Dunneの「実践的判断(practical judgement)」の概念を枠組みに、体育教員養成課程のゲーム科目9回の授業を映像で記録し、教員養成課程の学生が実践的判断を行使する機会がどのように提供されていたかを検証しています。

この記事の要点

  • 教員養成のゲーム授業は、学生に実践的判断を行使する4種類の機会(学校文脈での原則の機能を考える/アプローチや内容を比較する/教員養成者の判断を検討する/指導役を担う)を提供していたが、その機会は短く散発的で、相反する利害が競合する「極めて問題の多い」状況はほとんどなかった。
  • Dunneの実践的判断の概念、とりわけ「経験の再構築こそが有意味な学習である」という指摘は、体育教師教育にとって重要な示唆だと私は受け止めた。一方で、この論文が「実践的判断の機会」と呼ぶ場面の多くは、学生が自ら考えようとしている様子であって、実践の中で生じた判断ではない。むしろ教員養成担当者の側の実践的判断を描いたケースとして読むほうが正確だと私は考える。
  • 「正しい方法」を示さず、文脈に応じて適合的に行うことを奨励する教員養成者の姿勢は評価できる。ただしこの科目には、元々そのアプローチが奨励される風土があった。その風土がない場で同じことが起きるかは、この事例からは分からない。

詳しい検討は 専門家コメント に書いています。

研究の背景・目的

ゲームベースのアプローチ(GBA)は、学習者がゲームの仕組みを理解できるよう支援することに重点を置き、少人数制のゲーム、戦術の誇張、開かれた質問などを推奨してきました。技術のデモンストレーションからドリル、最後にゲームへと進む「伝統的」なアプローチは、スキルを文脈から切り離すと批判され、Kirkは教育学的根拠が全くないとまで断言しています。一方でRinkのように、有能な教師が判断力を発揮すればどちらも有効だとする立場もあります。

学術文献がGBAを推奨してきたにもかかわらず、現場の教師はGBAを頻繁に修正し、従来型を定期的に選んでいます。理由として研究者が挙げてきたのは、教師の知識不足(GBAは平均的な教師には複雑すぎる、組織的側面は習得できても原理を理解するのに苦労する)と、GBAと学校の規範との哲学的な相違(生徒はただゲームがしたい、GBAは教師のコントロールが効きにくい)です。ここで注目されてこなかったのが、教師がゲームを指導する際にどのように判断を下しているか、という点でした。本研究の目的は、体育教員養成(PETE)がある科目において、教員養成課程の学生(PST)にゲーム指導に関する実践的判断力を養う機会をどのように提供しているかを明らかにすることです。

枠組みはDunneの「実践的判断」(フロネシス)です。それは、変動的で動的な事柄に対処する際に必要とされる知恵であり、一般原則と直面している状況の特定の特性との間に「共鳴」を見出す知識を指します。Dunneによれば、判断力のある人は「事例の特殊性を尊重するため、一般的な規則をプロクルステスの床のように無理やり当てはめたりはしない」。教育において課題はしばしば、明確な解決基準のない「問題状況」として現れ、目的そのものについて熟考することになる。実践的判断は道徳の問題を伴い、普遍性ではなく特定の状況下の特定の人々にとっての価値に基づく。そして実践的判断は従来の意味では教えられず、実践に参加することによって学ばれる。学習者の側には、「これまでの経験では容易に包含できない新しい状況への挑戦に繰り返し立ち向かうこと」によって経験を再構築する準備、つまり問題への受容性が求められます。

方法

スウェーデンのある大学で、体育・レクリエーション教育課程4年生向けの必修ゲーム科目を対象とした本質的ケーススタディです。3週間にわたり9回の実践授業(全学生約44名対象の3時間授業が3回、半数対象の2時間授業が6回)が観察されました。担当は、ゲーム教育を専門とする経験豊富な教員養成担当者ピーター(仮名)で、最終回は学校で6年の指導経験をもつマークとの共同担当でした。授業ではTGfUの修正版、ピーターが「戦術志向」と呼ぶポジション重視のアプローチ、技術重視のラケットスポーツ導入、そしてGPAIによるパフォーマンス評価が扱われ、ピーター自身はこれらを「体験型」と表現していました。

データは、胸にGoProを装着した研究者1名による21時間の映像記録です。研究者は、学生と同じ活動に参加する能動的参加と、傍観する受動的参加を交互に行いました。能動的参加は、何が困難で不公平で楽しいかを「感じる」ために必要だと判断されました。加えて他の著者が観察ノートを取り、授業中に教員や学生に自由回答形式の質問をするエスノグラフィック・インタビューも行われました。分析では、Dunneの理論の要点(一般的なルールを具体的状況と結びつける、状況を比較する、複数の要因と道徳的側面を伴う選択)から「実践的判断を行使する機会」を定義し、映像から81のシーケンスを抽出、照合を経て57のシーケンスを4種類に分類しました。分析対象は、議論が見えたり聞こえたりする顕在的な出来事に限られています。

結果

機会1:原則が学校でどう機能するかを判断する

最も多く見られた機会です。授業の導入やまとめで、ピーターか学生のどちらかが提起し、通常1〜2分程度。多くの教師が実践課題の後で生徒に振り返りをさせようと苦労している、生徒は遊ぶことだけに興味があるからだ、という自身の経験から、ピーターは「ゲーム中心のアプローチで教えるために、教師にはどのようなスキルが必要なのか」と問いかけます。沈黙の後、一人の学生が「教師は生徒の期待を把握していなければならない」と答え、ピーターは「一部の学生は学校で振り返りの休憩を取り入れてみて、生徒たちは変化を好むことが分かった」と返して、課題が常に同じとは限らないという複雑性を加えました。別の場面では、学生グループが自発的に、バスケットボールが好きな生徒とそうでない生徒が混在する学校の現実を議論し、ドリブル制限などのルール変更を、公平性と戦術的意識の両面から検討しました。異なる考慮事項が決定を別々の方向に引っ張る様子が典型的に現れた場面です。

機会2:アプローチや内容を比較する

頻度は低いものの、生じたときにはより多くの時間が費やされました。学生たちは、修正版TGfUを「動きがばらばらで、ただ走り回るだけ」、ポジションを固定した戦術ベースのアプローチを「どこから始めるべきかが分かりやすかった」と対比し、「探求と開放性」と「構造と明確さ」を並置しました。ピーターは「ゲームベースのアプローチの狙いは理解を深めることだ。しかしポジションなどの考え方も、ゲームの理解に寄与しているのかもしれない。これは毎年話題になる。賛成派と反対派がいるのだ」と、中立的な結論を示しました。パドルテニスの授業では、他のラケットスポーツとの比較から、用具の費用、一度にプレーできる人数、上達までの時間、「パドルならではの独自性とは何か」といった論点が学生から出され、ピーターはここでも決定的な判断を避け、学校で教えるかどうかを決める際に考慮すべき問題として残しました。

機会3:教員養成者の判断を検討する

ピーターが授業に影響する決定を「声に出して考える」形で生じました。3対3のバスケットボールで、攻撃側がボールを失ったら相手が攻撃を始める前に「ホームに戻る」ことを許す。実際のルールではありませんが、これがないと両チームがコートを端から端まで走り回って疲れ果て、戦術を練習できないから、と説明し、これを勝つことより学習に集中させる「教育的なルール」と呼びました。次の授業では「教育的なルールなしで通常のルールでやってみるのもいい。前後の移動が激しくなりすぎたら再導入しよう。プレーしてどう感じるか感想を言ってほしい」と、ルールの適用を交渉可能なものにし、一般的な考え方をそれぞれの試合の文脈に当てはめて考えるよう求めました。

機会4:指導役を担う

単元中に2回ありました。ハンドボールのシュート練習ステーションを設計する課題では、残された決定事項は主に実践的なもので、学生たちはコーンの配置や役割のローテーションを調整しながら、何が問題になり得るかを理解していきました。GPAIを用いて仲間のパフォーマンスを評価しフィードバックする課題では、正確で有益な情報を伝えることと自信を築く励ましを与えることのバランスが求められ、学生はユーモアを交えたり、声を低くしたり、他の学生に聞こえない場所に移動したりと、配慮の手法を用いました。

考察のポイント

第一に、学生は確かに実践的判断を行使する機会に遭遇しました。授業は特定のアプローチを実演するだけでなく、「どのように」「何を」「なぜ」を問いかけていました。しかし機会は往々にして短く、技術的・戦術的専門性を養う活動の合間に散在していました。教員養成担当者が「知識の教授」より「知識の体現」に時間を割いたことは、体験型を掲げる授業として驚くことではない、と著者らは述べます。

第二に、複数の相反する要因を考慮しなければならないという意味で「極めて問題が多い」状況はほとんど見られませんでした。教育成果の達成と教室の統制維持との葛藤、他の教職員や学校の伝統がGBAへの逆風になる可能性については議論されず、行使された実践的判断の範囲は制限されていました。ゲームの目的そのものについても、教員養成担当者と学生はゲームの価値とインクルージョンの重要性を共有しており、「すべての学生がゲームに参加する活発な授業」で満足が合意され、なぜ体育でゲームなのか、なぜこの生徒たちに、なぜ今このゲームなのか、を熟考する機会はほとんどありませんでした。

第三に、従来型アプローチへの批判が絶えない中で、この教員養成担当者はGBAに代わる有効な選択肢として従来型の戦略を提示していました。その公平な姿勢は学生の実践的判断を可能にした。学生が技術重視とゲーム中心を組み合わせることは「カフェテリア式」と批判されてきましたが、著者らはこの落胆には同意しません。教師が「適切なタイミングで適切な行動」を選ぶことは、単一の行動方針しか知らない場合には困難だからです。ただし、ゲーム指導をめぐる議論に精通していなければ、実践的判断の余地は空虚になる、とも付け加えています。

まとめ

著者らは、教員養成がより問題性の高い状況を取り入れることで改善できると提案します。高齢者や特別支援を必要とする生徒など特定の対象に向けた授業設計、授業時間30分のみ、屋外必須、限られた用具といった制約下での実施。そして「なぜこの特定の生徒たちにゲームを取り上げるのか」「なぜ今、これらのゲームなのか」を省察する機会。学術誌で数十年続いてきた議論に親しむことが、学生の理解を「深める」可能性も強調されます。限界として、暗黙の判断を捉えられなかった方法上の制約と、PETEでの実践的判断と学校での実践的判断は別の社会的実践の中で形成されるという点が挙げられ、次の一歩は学生や現職教員が学校でこの判断をどう行使しているかの検討だとされています。


専門家コメント

まず、概念として面白いところ

この論文で私が最初に反応したのは、Dunneの実践的判断の概念である。余白に「実践的判断の概念が興味深い」と書き、Dunne(2005)の定義を引いた箇所には「これは引用できる」と書いた。一般的な規則をプロクルステスの床のように無理やり当てはめず、しかし事例の特殊性を一般的な知識体系と何らかの関係に結びつけようとする。これは、指導モデルを「処方箋」ではなく「仕様」として扱うという、私がこのブログで繰り返し書いてきた話と同じ場所を指している。処方箋が揃うほど判断は要らなくなる、という導入の懸念は、ゲーム指導に限らない。

もう一つ、Dunneの「これまでの経験では容易に包含できない新しい状況への挑戦に繰り返し立ち向かうことによって、その経験を再構築する。この再構築こそが有意味な学習である」という箇所には、「有意味な学習に関する重要な示唆」と書いた。問題を解決して習得しようとする意欲ではなく、問題に対する受容性が求められている、という言い方は、教師教育の側から見ると重い。学生に「答え」を持ち帰らせようとする養成課程は、この受容性を育てていない。

次に、これは誰の実践的判断なのか

結果を読み進めて、私は引っかかった。最も多かったという「機会1」の場面、ピーターが問いを投げ、学生が答え、ピーターが複雑性を足す一連のやり取りの横に、私はこう書いた。「これは実践的判断? 自ら考えようとしている様子。実践の中で生じてはいない気がする。大学教員の授業における実践的判断かな、このケースは」。学生は確かに考えている。だがそれは、ゲームを教えている最中に、目の前の状況と原則の間で共鳴点を探す判断ではない。授業の導入やまとめで、想像上の学校について話し合っている。Dunne自身が、実践的判断は実践に参加することで学ばれると言い、著者らも限界として、PETEの実践と学校の実践は別の社会的実践だと認めている。だとすればこの論文が描いているのは、学生の実践的判断ではなく、ピーターという教員養成担当者が、自分の授業という実践の中で下している実践的判断である。教育的なルールを導入し、撤回し、感想を求める。決定的な判断を避け、問題を学生に残す。それ自体は見事な実践的判断だと思う。ただ、タイトルの問いに対する答えとしては、ずれている。

考察で著者らは、ピーターの公平な姿勢が学生の実践的判断を可能にした、と書く。私は「文脈に応じて適合的に行うことを奨励している」と書き込んだ。それは確かにそうで、GBAか従来型かの二者択一を教員養成者が押しつけていない点は、GBA推進の文献が「カフェテリア式」と嘆いてきた状況を逆から見直すものとして評価できる。ただ、その一つ前の段落に私はこうも書いた。「元々、このアプローチが奨励される風土があった」。ピーターは経験豊富なゲーム教育者で、毎年「賛成派と反対派がいる」と言えるだけの蓄積を持ち、学生たちもゲームの価値を疑わない。実践的判断が奨励される風土がすでにある場で、実践的判断の機会が観察された。風土のない養成課程でこの結果が再現されるかは、この事例からは分からない。

そして、日本の教員養成で考えたこと

著者らが提案する改善策、特定の対象や制約下での授業設計、そして「なぜこの生徒たちに、なぜ今このゲームなのか」を問う機会は、日本の教員養成の実技科目にもそのまま持ち込める。私たちの実技授業も、体験型を掲げて「知識の体現」に時間を使い、教育学的な問いの時間は短い。問題なのは、その短い時間に投げる問いが、学生の経験を再構築させるほど問題含みかどうかだ。「すべての学生が参加する活発な授業」で満足が合意されてしまう構図は、日本の養成課程でも起きている。それでも、この論文が示した四つの機会の型は、自分の授業を点検する物差しとして使える。私はこの論文を、学生の判断を測る研究としてより、教員養成者が自分の判断を見直すための鏡として読んだ。


元論文情報

  • タイトル:How does physical education teacher education prepare preservice teachers to make practical judgements when teaching games? A case study
  • 著者:Dean Barker, Gunn Nyberg, Jan-Eric Ekberg, Håkan Larsson
  • 掲載誌:Physical Education and Sport Pedagogy(オンライン先行公開)
  • 発行年:2026年(2026年4月22日公開、オープンアクセス CC BY 4.0)
  • DOI:10.1080/17408989.2026.2662356
  • URL:https://doi.org/10.1080/17408989.2026.2662356

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました