協同学習は体育で大きな可能性をもっている。しかし、その導入が円滑で問題のないものになるとは限らない。この論文の結論は、およそこの二文に尽きる。成果を示して終わる研究に慣れた目には、後半がひどく据わりの悪いものに見える。
ベン・ダイソンが2002年に『Journal of Teaching in Physical Education』で報告した研究で、ある小学校の体育プログラムに協同学習が入っていく二年間を、教師と子どもの双方の視点から描いている。私にとっては、恩師の岡出先生から読むように渡された一本で、当時はその意味がよくわからなかった論文でもある。
この記事の要点
- 協同学習は体育で大きな可能性をもつが、その導入は円滑にも、問題のないものにもならない。この論文は、うまくいかなかったところを消さずに書いている。
- 適応を求められたのは子どもだけではなかった。教師もまた適応する必要があり、そこで葛藤が起きていた。
- 実践はゆらぐ。人がやっているのだからゆらぐ。その前提から出発する研究があると知ったことが、私自身の出発点になった。
詳しい検討は 専門家コメント に書いています。
研究の背景・目的
協同学習は、構造化された異質性の小グループで子どもが協力し、教科内容を習得していく指導形式である。子どもは教材を学ぶだけでなく、グループの仲間の学習を支える責任も負う。必須要素として、積極的な相互依存、個人の責任、促進的な対面交流、対人スキルおよび小グループスキル、グループでの振り返りの五つが挙げられている。
一般教育の領域では、学業成績、自尊心、能動的学習、社会的スキルの発達などへの肯定的な効果が報告されてきた。しかし体育では、協同学習の活用を推奨する声はあっても、研究はほとんど行われていなかった。そこでこの研究は、小学校の体育プログラムにおける協同学習の導入について、教師の視点と、それに対する子どもの反応の両方を探ることを目的としている。
方法
対象は、ある小学校の体育教師と、学年の混合クラスおよび単一学年クラスの児童である。データは、教師と児童へのインタビュー、非参加型観察、フィールドノート、教師の日誌、関連文書から集められた。分析には帰納的分析法と恒常比較法が用いられ、研究の過程を通じて継続的に整理が進められている。
結果として立ち上がったカテゴリーは六つである。授業の目標、児童の役割、責任の所在、コミュニケーション能力、協力、練習時間。教師と児童が協同学習について似た認識をもっていたことが、これらのカテゴリーから確かめられている。
結果
目標は、教師のものと子どものものが重なっていた
教師が掲げた目標と、子どもが語った目標が一致していた。しかもそれは教師の側にとどまらず、子どもと共有されていた。運動、認知、社会的な側面のそれぞれについて、何を目指しているのかが授業の中で言葉になっている。
役割が、教え合いを動かしていた
子どもたちはコーチ、オーガナイザー、記録係、励まし役といった役割を担った。コーチ役が仲間にフィードバックを与えることで、互いへの敬意が育ち、「腕を伸ばす様子がいいね」といった言葉が交わされるようになる。ここで働いていたのは、技術のポイントを示す言葉、つまりキューである。キューを媒介にして教え合いが成立し、それが運動に対する理解と技能の両方を押し上げていた。
役割を果たすためには、自分のパフォーマンスだけでなく、仲間のパフォーマンスのポイントを理解する必要がある。教え合いが理解を促進する、という関係がここで生まれている。
最初からうまくはいかなかった
教師のアマンダは、当初四つの役割を割り当てることを躊躇していた。すべての役割を担う責任感をもってほしい、困っている子がいたら行ってコーチしてほしい、励まし合う姿が見たい。そう望んでいた。しかし、それが子どもにとってどれほど難しいことなのかは、まだ見えていなかった。
時間が経つにつれて彼女の理解は変わっていく。相互依存を高めるには、各生徒が役割をもち、それを果たすことが求められる。役割を配るだけでは足りず、協力が起きる仕組みのほうを用意する必要があった。
コミュニケーションが、そのまま課題になった
読み手役がぶつぶつ呟くだけでほとんど聞こえなかった、という報告がある。コーチ役だったのにグループが叫んだり大声で話したりして誰も話を聞いてくれなかった、なぜなのか分からない、という語りもある。協同学習では、コミュニケーションや小グループのスキルがいかに重要で、いかに難しいかが、こうした失敗のほうから浮かび上がってくる。
アマンダはグループ・プロセッシングの時間を使って、観察した問題を子どもたちに示し、解決策を一緒に考えた。研究の二年目には、ほとんどの授業の途中と終わりにこの振り返りが置かれるようになっている。
グループの編成と、課題の難度
当初、子どもたちは友人とは別のグループに配属されることを快く思っていなかった。それでもアマンダは、能力の異なる人々と協力して働くことを学ぶのが重要だと考えていた。そこで、少なくとも一人の友人と一緒に活動できるようにしたうえで、二人組を組み合わせて四人組にする、という手を打っている。二年目の終わり頃には、子どもたちは様々な人と協力する方法を学び、この指導法を気に入るようになったと彼女は感じていた。
もめごとが起きたとき、彼女はそれを自分で処理せず、子どもたちに解決させた。課題の難度も、授業が進むなかで調整されている。
考察のポイント
この論文が最後に置いているのは、協同学習という指導形式が体育で大きな可能性をもつ、という結論と、その導入が必ずしも円滑で問題のないものにはならないだろう、という結論である。二つが並んで書かれていることに、この研究の性格が表れている。
ダイソンは、教師が自分の仕事の一部を子どもに委ねていく過程として、この二年間を描いている。同時に、教師自身もまた適応する必要があったことを書き落としていない。計画は進行中に調整され、問いの出し方も変わっていく。うまくいった場面だけでなく、教師が苛立ちを覚えた場面も記述されている。
まとめ
協同学習を入れれば協力が起きる、という話ではなかった。役割を配り、キューを用意し、振り返りの時間を置き、グループの組み方を変え、課題の難度を調整する。そうやって条件を整えていった二年間の記録であり、その過程で教師と子どもの双方が変わっていった記録でもある。
専門家コメント
まず、わからなかったという記憶から
この論文は、私にとって重要な意味のある一本である。恩師の岡出先生から読むように渡された。当時の私は、成果主義的な教育学的アプローチにどっぷり浸かっていた。だから、書かれている内容にも、論文の方向性にも、意味がわからなかった。
何がわからなかったのかを、いまなら言葉にできる。私が探していたのは、この指導法を入れたらこれだけの効果が出た、という形の答えだった。この論文はそれを書いていない。むしろ、入れてみたらこういう具合にうまくいかなかった、という話のほうが多い。読み終えても、何が証明されたのかが手元に残らない。当時の私には、それが研究として何をしたことになるのか、掴めなかったのだと思う。
今回読み返して、最初の頁の余白に「implementation = 適用と呼んでいる」と書いた。導入でも実施でもなく、適用。ある場に既にあるものへ、別のものを当てていく作業として書かれている。そう読むと、うまくいかない部分が残るのは当然のことになる。
次に、いま読んで大事だと思ったところ
教師のアマンダが当初、四つの役割を割り当てるのを躊躇していた箇所に、私は「当初は子どもに求めすぎていた。自分が子どもに難しいことを要求していることに気づいていない」と書いた。そして、その下の段落に「文脈がなければ協力は難しい。仕組みとしてつくってあげる必要があった」と続けている。協力は子どもの側の資質ではなく、置かれた条件の側の問題だということである。役割を配って終わりではない。同じ頁に「置いて終わりではない。習熟が必要」とも書いた。
もめごとを教師が処理せず子どもに解決させた箇所と、課題の難度を調整した箇所には、それぞれ印をつけた。この二つは同じことの裏表だと思う。委ねるためには、委ねられる状態をつくっておかなければならない。
いちばん強く引かれたのは、終盤の記述である。「人だから実践はゆらぐことはある」と書き、その隣に「大事な示唆」と書いた。さらに「教師もまた適応する必要があった」「適応は葛藤をもたらす」と続けている。適応を求められるのは子どもの側だけではない。教師もまた適応する側にいて、そこには葛藤が生じる。そして葛藤は、実践がうまくいっていない証拠ではなく、適応が起きていることの現れである。
グループの編成をめぐる箇所には、「日本でもよく起こる。同質性は居心地がいいから」と書いた。友人と離されることを子どもが嫌がるのは、どこでも同じである。そのうえで、アマンダの打った手は、適度な同質性と異質性を両立させる編成の工夫だった。そして私は、その頁の別のところに「日本の学習集団形成と同じ議論」と書いている。協同学習への適応というのは、日本の文脈で言えば学習集団の形成にあたるのではないか。海外の指導モデルの話として遠ざけてしまうと、この重なりが見えなくなる。
そして、自分の変化について
だんだんと意味がわかってくると、私は、どうすればこの視点を日本の研究に持ち込めるかを考え続けるようになった。このような書き方をしても、日本の学会誌には受け入れられないだろう、という予感があったからである。日本に受け入れられつつ、この論文の中の解釈的な視点を大事にする。その試行錯誤の中で生まれたのが、小学校体育授業における協同学習モデルの適用過程を扱った、私の一本目の論文だった。ダイソンが implementation と呼んだものを、私は適用過程と呼んだ。そして、教師の側に生じる葛藤を、実践が失敗している証拠としてではなく、適用が進んでいることの現れとして読もうとした。この論文を渡されていなければ、その枠組みは立てられなかったと思う。
改めて読むと、多くの示唆を読み取ることができる。それはつまり、自分の視点が大学院生の頃とはもう全く変わったということでもある。同じ文字が並んでいるのに、読み取れるものが違う。その差が、そのまま自分の変化なのだと思う。
最後にひとつ、いまも答えが出ていない問いを書いておく。私は「成功経験から学ぶのか」と余白に書いた。この研究で教師が学んだ多くは、うまくいかなかった場面から来ているように見える。だとすれば、研修や教員養成で成功事例ばかりを配ることには、どれだけの意味があるのだろうか。別の回で扱った研究でも、教員が動かなかった理由は知識の不足ではなく、これまでの経験がつくった予想のほうにあった。二十年以上を隔てた二本が、同じところを指しているように思える。
元論文情報
- タイトル:The Implementation of Cooperative Learning in an Elementary Physical Education Program
- 著者:Ben Dyson
- 掲載誌:Journal of Teaching in Physical Education, 22(1), 69–85
- 発行年:2002年
- URL:出版社の論文ページ


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