何に対して効果があるのか、という問いが抜けている。
今日は2件。国内は、次の5年間の教育政策の方向を決める第5期教育振興基本計画の、最初の会合である。海外は、自己主導型学習と教師の専門性をめぐる寄稿で、昨日この場で公開した講演の記事とほぼ同じことを論じている。
国内の教育ニュース
中教審、第5期教育振興基本計画の策定へ初会合──来年度中に答申
中央教育審議会の教育振興基本計画部会が10月19日、第5期計画(令和10〜14年度)の策定に向けた初会合を開いた。生成AIの普及への対応と、人口減少地域での教育機会の確保が検討テーマとなっている。8月の諮問では、理工・デジタル人材の育成、特別な支援を要する児童生徒への対応、教員の確保も示されている。第4期計画の振り返りでは、国際的に高い学力水準を維持する一方で、学習意欲の低下と、1人1台端末の効果的な活用が進んでいない点が課題とされた。配付資料を見ると、「授業の内容がよく分かる」と答えた児童生徒の割合は令和7年度に3〜6ポイント下がっているのに対し、「勉強は好き」は小学校で9割前後、中学校で8割台半ばと、ほぼ横ばいである。答申は令和9年度中、閣議決定は令和10年度が目指されている。
出典:日本教育新聞「第5期教育振興基本計画の策定へ初会合」(2026年10月20日)/文部科学省「教育振興基本計画部会(配付資料)」
筆者コメント
第5期計画の課題には、生成AIや人口減少が進む地域といった社会情勢に関わる課題と並んで、教員の確保という制度的な課題が挙げられている。気になるのは、学力水準を維持しながら学習意欲が低下したという整理である。資料を見ると、はっきり下がっているのは「授業の内容がよく分かる」という項目であり、これをもって意欲が低下したと言うのは難しい。むしろ研修が機能しているかが関係しているのではないか。人材確保のために採用の間口を広げ、後から育てるという形をとるのであれば、いきなり同じ仕事を持たせるのではなく、徐々に任せる体制づくりが欠かせない。また、1人1台端末の「効果的な活用」は、個別最適な学びと協働的な学びの場面で使われているかどうかの実施率で測られ、データとしては横ばいである。これらの概念は受け止め方がそれぞれ異なり、そもそも目指すものとしてある。そこで使われているかどうかに意味があるのか疑問であり、何に対して効果があるのかという議論がないまま「効果的」という言葉が使われている。海外では紙とペンへの回帰を説く主張もあるなかで、活用が目的化されていないかの点検が必要である。どのような活用を狙うのか、意欲の低下は何によって引き起こされるのかを、今後の議論で見ていきたい。なお、運動時間とスクリーンタイムの関係が指摘されているのは、人間に与えられた24時間をどう使うかという話であり、当然の結果である。
※配付資料には「効果的な活用」の定義は示されておらず、ICTを「一人一人の能力・ペース・理解度に応じた課題」に使っている割合(令和5〜7年度)が指標として並んでいます。
海外の教育ニュース
「自己主導型学習は、教師を不要にしない」──米Education Week寄稿
自己主導型学習を実践してきた2人が、Education Weekのオピニオン欄で、自己主導が広がっても教師の専門性は不要にならないと論じた。むしろ、質の高い自己主導にはより高度な指導が必要だという主張である。自己主導は一度にまとめて与える権限ではなく段階的な連続体であり、どの責任をいつ手放すかという判断こそが、大人の側の高度な技能だとする。寄稿は、行き詰まっているように見える2人の生徒を例に挙げ、一方は見守り、もう一方には5分の直接指導を行う、という選び分けを示している。教師の専門性を、生徒のつまずきを診断する力に置く立場である。
出典:Education Week「Opinion: No, Self-Directed Learning Doesn’t Make Teachers Obsolete」(2026年10月)
筆者コメント
筆者が自己決定型学習と呼んできたものと、自己主導型学習は同じ概念の中に位置づく。本記事が述べる「質の高い自己主導には、より高度な指導が必要だ」という主張は、10月21日に講演で話したことと重なる。ただし、教師の役割にさまざまな名前を付けると、それが一人歩きし、技術的な議論に流れやすい。最も重要なのは、物事を見る理論的なレンズである。筆者の博士論文でも、授業の中で教師は教える者にもファシリテートする者にもなっていたが、それはケースバイケースであった。教師が役割を意識して切り替えていたわけではない。大きな見方の中に身を置き、その見方において子どもの様子に応答していたのである。
上のコメントにある講演については、どこまで教師が担い、どこから子どもに開くか|中学校保健体育の研究大会での講演からで、当日の資料とあわせて書いています。
2件を並べて読む
別々の話に見えるが、重なるところがある。どちらも「何のために」が抜けると、形だけが残るという構造を抱えている。端末の活用は、何に効くのかを言わないまま、活用そのものが目標になりうる。自己主導も、どの責任をいつ手放すかを見極めないまま、「任せる」という形だけが広がりうる。寄稿が自己主導を権限の譲渡ではなく連続体として見ているのは、その形骸化を避けるためだと読めます。
行き詰まった2人の例も示唆的です。同じように止まって見えても、待つべき子と、5分だけ直接教えるべき子がいる。どちらかに決めてしまう方法は、この場面では使えません。見て、選ぶ。そして選んだ結果を引き受ける。
体育に引きつけて言えば、ここは場の設計の話になります。練習を選ばせるとき、どの範囲を選ばせ、どこは教師が決めておくのか。選ばせた結果うまくいかなかったとき、待つのか、枠を足すのか、担い直すのか。任せることは、手を引くことではありません。見るべきものが増えるということです。端末も同じで、置いたから効くのではなく、何を見取るために使うのかが先に来ます。
※本記事の要約は各出典記事および配付資料の内容にもとづき、筆者が要点を整理したものです。

コメント