「教師はモデルを正しく使えない」。体育のモデル研究は、この一文を繰り返し書いてきた。2010年から2021年に発表された文献48本を読み直したスウェーデンの研究チームは、そこに教師の描かれ方が8通りあることを見つけている。抵抗する者、正しく使えない者、機械的に再現する者、苦戦する者、変わるためにモデルを必要とする者、支援があれば使える者、適応させる者、研究者と協働する者。
この研究は、エレブルー大学(スウェーデン)のロビン・リンドグレン・フィエルナー、ヴァレリア・ヴァレア、ディーン・バーカーによるもので、体育・スポーツ教育学の国際誌 Physical Education and Sport Pedagogy に2024年(オンライン公開は2022年)に掲載された。スコーピング・レビューという手法で文献を網羅的に読み、そこにデューイの教育思想を当てて読み直す、という二段構えの論文である。
この記事の要点
- 体育のモデル研究は、教師を8通りに位置づけている。「抵抗する」「正しく使えない」から「適応させる」「研究者と協働する」まで幅があり、同じ論文のなかに相反する位置づけが同居していることも多い。
- モデルを渡す側が教師を「支援を必要とする存在」として描き続けるかぎり、モデルは教師の自律性を高める道具にはならない。子どもをエンパワーするための道具が、教師からは判断を取り上げている。
- ただし、この論文が批判の出発点に置く「いまの教師は教師中心で時代遅れだ」という前提そのものが、根拠の薄い印象論である可能性がある。学習者中心への過度な傾倒もまた、検証されていない信念になりうる。
詳しい検討は 専門家コメント に書いています。
研究の背景・目的
体育におけるモデルの活用は、この20年で広がってきました。モデルは、教師が学習に焦点を当てることを可能にし、学習目標・活動・評価を統合する枠組みを与え、自分の仕事に教育的な正当性を与えてくれます。しかし著者らは、その普及の一方で、モデルを実施する教師の役割については曖昧さが残っていると指摘します。
一方には、教師はモデルを道具的に用いるべきだという立場があります。「忠実度(fidelity)」「譲れない特徴(non-negotiable features)」「ベンチマーク」といった用語は、モデルに対して教師を技術者として位置づけます。他方には、教師はモデルを実践の着想として用いるべきで、自分が働く文脈に応じて使えばよいという立場があります。こちらは教師を、独立した職人として位置づけます。
この曖昧さが問題になるのは、モデルの実施において教師が「主要な担い手」だからです。研究者が教師をどう位置づけるかは、その後の研究にも、学校での実践にも影響します。そこで本論文は二つの目的を立てます。第一に、体育のモデル文献が教師をどう位置づけてきたかの全体像を描くこと。第二に、その知見をデューイの理論で読み直し、問題提起として差し出すことです。
方法
アークシーとオマリー(2005)の5段階の枠組みに基づくスコーピング・レビューです。研究課題は「体育のモデル文献は、教師をどのような立場に位置づけているか」の一つに絞られました。
検索はWeb of Science、SPORT Discus、Google Scholarの3つのデータベースで、2020年10月から2021年11月にかけて4回実施されました。検索語は「Physical education」と「Models-based practice」「Pedagogical model」「Instructional model」「Curriculum model」「Model」「Teacher」の組み合わせ、対象は2010年から2021年に英語で発表された文献です。書籍、博士論文、レビューも対象に含めています。
選定の基準は二つ。現職教師に明確な焦点があること(教員養成段階の学生は、モデルとの関係で異なる位置づけをされる可能性があるため除外)、そして教師とモデルの関係について、おおむね1ページ以上の記述・議論があることです。最終的に48本が対象となりました。実証研究、概念論文、レビュー、書籍、博士論文が混在しています。
分析は帰納的なテーマ分析です。類似した位置づけは統合し、異質なものは分割した結果、8つの類型が残りました。最後に、デューイの思想を用いた再解釈(アブダクティブな分析)が加えられます。
結果
8つの位置づけは、教師の裁量をどれだけ認めるかという点で、ゆるやかに並んでいます。ここでは3つのまとまりに分けて紹介します。なお著者らが注意を促しているとおり、文献のなかには、自らが反対する位置づけを記述しているものもあります。ある論文が特定の類型に分類されたからといって、その著者がその位置づけを提唱していたわけではありません。単一の位置づけだけを扱っていた文献は、48本中2本だけでした。
できない存在として描かれる教師
(1) モデルの使用に抵抗を示す教師。抵抗の理由として挙げられるのは4つです。導入に多大な時間と労力を要すること、モデルを用いると授業の主導権を失うことを恐れること、外部からの支援を受けている間だけ用いる用意があること、モデルとその主要要素の独自性を理解できていないこと。ストレスや時間的制約があるときは、モデルを用いた指導が放棄されやすいとも指摘されています。
(2) モデルを正しく活用できない教師。教科知識の水準が障害になっているという主張、カリキュラムを狭く解釈しているという指摘、そしてより多くの研究が、教師がモデルの根底にある哲学を理解できていないと示唆します。ケイシー(2014)は「教師が使用するいかなるモデルも、教師によって『歪曲』されることは避けられない」と述べています。主な理由として挙げられるのは、経験不足と慣れ不足です。
(3) モデルを機械的に再現する教師。教師は「忠実であり続ける」べきであり、モデルを「設計者が意図した通りに」「完全な形で」実施すべきだと主張される場合、教師は再現者として位置づけられます。「譲れない特徴」「忠実度」「青写真」といった用語が、モデルの硬直性を示唆します。
(4) モデルの導入に苦戦する教師。ミスを犯し、初心者のように感じ、不安やフラストレーションを抱く人物として描かれます。この位置づけはしばしば成功物語の一部で、時間と労力を費やし、困難に直面したのち、ついに乗り越えて利点を確信するに至る、という筋書きをとります。
支えられる存在として描かれる教師
(5) 日常的な実践を変えるためにモデルを必要とする教師。多くの研究が、モデルをうまく導入するには教師が日常の実践を変える必要があると位置づけます。その前提にあるのは、通常の指導は教師中心で時代遅れであり、効果的な指導の現在の基準を満たしていない、という一般的な主張です。学習者中心の教育法への転換を求める提言は、研修の有無や経験年数にかかわらず、すべての教師に向けられてきました。
(6) 支援があればモデルを活用できる教師。初期および継続的な支援があれば、教師はモデルをうまく実践できるとされます。支援の担い手は、モデル開発者や大学の研究者、管理職、同僚や専門家です。研修セッション、ワークショップ、指導用動画、「批判的な友人」としての研究者との継続的な議論などが有益だと指摘されます。ここでは教師自身も、他の教師にとっての支援の提供者として位置づけられます。
判断する存在として描かれる教師
(7) モデルを適応させる教師。適応者とは、カリキュラム、生徒、自身の指導スタイル、学校、利用可能な施設などに応じて、モデルの活用方法を調整する者です。適応は、モデル文献において一貫して取り上げられているテーマでもあります。ヘーレンスら(2011)は「モデルのいくつかの側面は、生徒の年齢や学習への準備状況、具体的な学習成果、情報や課題の複雑さ、利用可能な施設や設備など、特定の文脈にふさわしいさまざまな正当な理由に基づき、修正される必要がある」と述べています。
ここでケイシー(2010)が、モデルはレシピや処方箋というよりも理論的枠組みやレンズを提供するものだと示唆している点も紹介されます。「レンズ」という比喩においては、モデルを実践するとは、自らの実践をどのように理解するかということに他なりません。
(8) モデルを実践する際に研究者と協力する教師。「パートナーシップ」や「共同決定」が強調され、実施段階での指導、ときには計画段階における教師の声が重視されます。ただし著者らは、協力する教師が具体的に何を、いつ、どのように貢献しているかを詳細に記述した文献はほとんどないと指摘します。プロジェクトが「協働」と呼ばれていても、実施計画の策定を教師が担当していない場合には疑問が生じうる、とも書かれています。
考察のポイント
著者らは、デューイの枠組みで3つの論点を立てます。
第一に、モデルによる教師の権限剥奪。教師がモデルを活用できないかもしれない、支援を必要としている、無批判に再現する存在である、時代遅れの教師中心の実践の提唱者である——こうした見方は、教師には使用する教授法を決定する知的能力と責任があるというデューイ(1903)の主張と正面から矛盾します。生徒のエンパワーメントを支援する過程で、研究者が教師にとってエンパワーメントを阻害しうる立場を描いていることは、ある種のパラドックスです。ただし著者らは留保も置きます。モデルは教師の自律性を高めるために開発されたわけではないこと、そして文献には自律的な位置づけ(抵抗する、適応させる、協働する)も同時に含まれていること。多様で相反する位置づけが併存すること自体は、デューイのいう民主的な生の様式からすれば、むしろ望ましいのだと。
あわせて著者らは、モデル開発の出発点に置かれてきた「今日の教師は生徒中心のやり方で働いていない」という主張に疑問を呈します。2020年代においても体育教師が依然として教師中心の教育法に依存していることを示す証拠は乏しく、構成主義的・学習者中心のアプローチは20年以上にわたって提唱され、近年の論文はむしろ教師がそれを採用・推進していると報告している、というのがその根拠です。
第二に、教師と研究者の関係。教師を機械的な再現者や正しく使えない利用者として位置づけることは、専門家が単に教育用モデルを教師に手渡すだけだという含意をもちます。これはデューイが批判した理論と実践の二元論そのものです。実際には、体育の研究者は教員養成の文脈で教師として働くことが多く、学校で体育教師として勤務した経験をもつ場合も多い。学校の教員も、自身の指導について仮説を立て、方法を試し、経験から結論を導き、ときに研究に貢献します。理論志向の集団と実践志向の集団をモデルが架橋する、という考え方は、モデル導入の現場で実際に起きていることを見誤らせます。
第三に、モデルそのものの構想。教師の位置づけは、モデルがどのように構想・開発されるかに大きく依存します。モデルが「行動の方法」として構想されるなら、教師は再現者か抵抗者としてしか位置づけられません。ケイシー(2010)のいうレンズとしてモデルを用いるには、モデルを具体的な事例や目標を伴う活動としてではなく、より緩やかで文字通りの意味にとらわれない仕方で記述する必要がある。そのとき「モデル」という語が最適かどうかは、議論の余地がある、と著者らは書きます。
まとめ
結びで著者らは、研究者と教師の関係について二つの反省を述べます。一つは、モデル研究が「学校で働く人々は研究者の助けと指導を必要としている」という欠損の物語に加担してきたこと。研究者は善意の専門家として位置づけられ、教師のほうも指示を歓迎する場合がある。だからこそ、別の語り方が要るのではないか。すでに進歩的で革新的な指導をしている教師に対して、研究者は他にどう関われるのか。大学で働く人々は、指導の道具を提供しなくても、学校で働く人々と仕事を続けられるのではないか。
もう一つは「モデル」という用語そのものへの居心地の悪さです。モデルという語は比喩であり、関係者の関係を特定の仕方で構築してしまう。体育が発展を続けるなら、体育を異なる仕方で見るためのレンズを、あるいは異なる体育を学校で育てるための種子を、開発する必要があるのではないか。広がり、成熟し、花開くという含意をもつ「普及(dissemination)」という考え方のほうが、研究者と教師が協働して教育実践を耕す道筋として生産的である——そう述べて論文は閉じられます。
専門家コメント
まず、この論文が可視化したもの
私はこの論文を読みながら、冒頭の文献群に「モデルにおける中心的文献だ」と書いた。カークもケイシーもメッツラーもハスティも、この分野を作ってきた名前が並ぶ。その中心的な文献が、教師をどう描いてきたかを一覧にしたという点で、この論文の作業は地味だが効く。
抵抗の項では、理由が4つに整理されていることに印を付け、そこに「教師にニーズが抵抗に勝る」と書いた。時間も労力もかかる、主導権を失うかもしれない、それでもやるとすれば、教師の側にそれを必要とする理由があるときだろう。裏返せば「圧力がなければ、新規性のあるものは受け入れがたいものになる」。新しさそれ自体は、現場を動かす力をもたない。
もう一つ、ビョルケらのフィールドノートが引かれている箇所がある。教師たちが自分に解決策を求め、自らを知識の受動的な受け手と捉えているように感じた、という記述だ。私はその横に「研究者からの視点」と書き、さらに「即時的な解決手段を欲している者としてみている」と書いた。これは教師の実態の記述ではなく、研究者の目に映った像である。ここを区別しないと、記述が評価にすり替わる。
次に、疑問が残ったところ
「モデルを正しく活用できない教師」という位置づけには、いくつも書き込みをした。哲学を理解できていない、という指摘に対して私が書いたのは「初学で哲学まで理解しろというのは無理がある」「理解は多様である」の二つだ。モデルの背後にある思想を最初から把握して実践に入れる人は、そう多くない。多くの教師は、やってみて、うまくいかず、そこから遡って理解する。順序が逆なのだ。
そして、この節の末尾に私が書いたのは「そもそも『正しい』理解とは何なのか」という問いである。忠実度を測る研究は、正しい理解を誰かが持っていることを前提にする。だが、モデルの開発者の理解が正解なのか。それとも、目の前の子どもに届いた実践のほうが正しいのか。この問いに答えないまま「正しく使えない」と言われても、現場は動きようがない。
忠実性をめぐる箇所には「忠実性を主張した者が、それを批判している?」とも書いた。レシピのようにモデルを使うことは教師に裁量をほとんど与えない、という批判が、忠実度という概念を持ち込んだのと同じ論者たちから出ている。ここは読み違えかもしれないが、議論の当事者が入れ替わりながら同じ言葉を使っているように見えた。
もう一つ、教師の側がより具体的な指示やすぐ使える授業計画を求めている、という指摘には「教師側にも依存的なニーズがある」と書いた。これは教師を責める話ではない。多忙のなかで、手順が明示されたものが選ばれるのは自然である。ただ、その依存を前提に設計を続ければ、依存はさらに深まる。
そして、この論文に最も足りないと感じたのは「ケースバイケースという観点」である。何を教えるとき、何を学習するときに、どの位置づけがふさわしいのか。器械運動の初回と、球技の単元後半とでは、教師が取るべき位置は違うはずだ。8つの類型は横並びに提示されるが、実践の側から見れば、それらは場面ごとに選ばれるものである。
そして、私自身が考えたこと
この論文が一番効いたのは、私の立場に近い記述が出てきた箇所だった。私はそこに「学習者中心への過度な傾倒もまた、根拠の少ない盲信である」と書いている。著者らが、今日の教師は生徒中心で働いていないという主張を支える証拠は乏しい、と書いた部分である。私はそれに「確かに、この仮説は素朴な印象論である」と付け加えた。教師中心は遅れていて学習者中心は進んでいる、という図式そのものが、検証されないまま前提として流通してきたのではないか。
「普遍的に正しい立ち位置はない」とも書いた。教師がどこまで介入すべきかは、生徒の自己決定能力に依存する。自分で課題を立てられる集団と、まだそこに届かない集団とでは、教師の位置は変わる。ファシリテーションという語が一見穏当に見えるのは、この依存関係を隠しているからだ。
付け加えておくと、捉え方は、私の博士論文で取り扱った。自分の主張は、この議論を進めている位置にあったのだ。そう書ける論文に出会えるのは、めずらしいことである。自分の問題意識は独りよがりのものではなかったと安心がある。
8つの類型のうち、私が「最も実際に近い」と感じたのは「モデルを適応させる教師」である。モデルと教師の関係は、ここが出発点でよい。実践主体を重視する立場だと言ってもいい。ただし、他方で「どこまで変えていいのか」は検討の余地がのこる。何を変えても構わないなら、モデルという言葉を使う意味がなくなる。変えてよい部分と、変えると別物になる部分の線引きは、この論文では示されない。
協働の節には「協働的関係における権力関係」と書いた。プロジェクトが協働と呼ばれていても、実施計画を教師が担当していないなら、それは協働ではない。この問題は、私が以前に紹介した研究者と実践者の協働を扱った論文とも重なる。呼び名ではなく、誰が何を決めているかで判断するほかない。
最後に、この論文が最後に伝えていることを書いておきたい。モデルの解釈は変化した、ということである。行動の方法としてのモデルから、実践を見るためのレンズとしてのモデルへ。この移動が起きるなら、教師の位置づけも自動的に変わる。再現者か抵抗者か、という二択は、モデルを手順書として構想したことの帰結にすぎなかった。そう読めたとき、この論文の作業の意味がはっきりする。8つの類型は、教師の実態の分類ではない。私たち研究する側が、何を前提に書いてきたかの分類であり、私たちがこれから選ぶことのできる立場の参照である。
元論文情報
- タイトル:How physical education teachers are positioned in models scholarship: a scoping review
- 著者:Robin Lindgren Fjellner, Valeria Varea, Dean Barker(エレブルー大学、スウェーデン)
- 掲載誌:Physical Education and Sport Pedagogy, 29(4), 329–345
- 発行年:2024年(オンライン公開2022年6月25日)
- DOI:10.1080/17408989.2022.2083098
- URL:https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/17408989.2022.2083098(オープンアクセス/CC BY-NC-ND)


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