停滞を越えて|小学校体育授業における協同学習モデルの適用過程:情意・社会的能力の向上を意図した高学年表現運動の実践を対象として

2020年〜2024年

協同学習モデルを手順どおりに運用しているのに、授業が止まったように見える。そのとき教師は、何を見て「うまくいっていない」と感じているのでしょうか。小学校5年生のフォークダンス10時間の単元で、授業者の「授業に対する手応え」は上がり、落ち、そして急に跳ね上がりました。この論文は、その一本の線を手がかりに、協同学習モデルが授業のなかでどう機能し、どこでつまずき、どう立て直されたのかを時系列で描いています。

著者は栗田昇平(大阪体育大学)と大西祐司(びわこ成蹊スポーツ大学)で、『体育学研究』第68巻(2023年)に掲載され、日本体育・スポーツ・健康学会の浅田学術奨励賞を受けました。国内誌の紹介の第1回として、本ブログの運営者自身の論文を取り上げます。

この記事の要点

  • 小学5年生の表現運動10時間に協同学習モデルを適用したところ、授業者の手応えは「上昇(1〜5時間目)→停滞(6・7時間目)→飛躍(8〜10時間目)」の3局面をたどり、停滞は課題構造を再構築する計画の調整によって越えられた。
  • 停滞はモデルの運用ミスではなく、主導権が児童に移ったときに起こり得る局面である。単元の途中で授業が止まったように見えたとき、それは失敗の合図ではなく、自分の不全感をいったん置いて子どもを見る合図だと私は考えている。
  • この論文は「特定の指導方法を入れれば自動的に成果が出る」という成果検証型研究の図式を壊したくて書いたものであり、私にとっては研究者としての長い停滞を越えて歩み出した一本でもある。

詳しい検討は 著者コメント に書いています。

研究の背景・目的

情意・社会的能力の育成は、OECDのキー・コンピテンシーや2017年改訂の学習指導要領における「学びに向かう力、人間性等」にみられるように、現代の学校教育が広く求めるものになっています。体育授業はこの領域との結びつきが強い教科だとされる一方で、無意図的に授業を行っただけでは情意・社会的能力の育成にはつながらないこと、また情意・社会的能力に注目するあまり運動学習や認知学習と切り離されてしまう懸念があることも指摘されてきました。

この要求に応えうる学習指導方法として本研究が取り上げるのが、協同学習モデル(cooperative learning model)です。協同学習モデルは、①協同的な相互依存関係、②グループ目標と個人の責任、③対面での相互作用、④社会的技能の指導、⑤グループの振り返り、という5つの構成要素と、ジグソーやSTADのような「ストラクチャー」の二層からなり、抽象度の高い原則と再現性の高い手順を兼ね備えている点が特徴です。英語圏のレビュー(Casey and Goodyear, 2015; Bores-García et al., 2021)では、身体・認知・社会・情意の各領域で肯定的な成果が報告され、とりわけ社会的領域に効果的であることが示されています。

一方で著者らは、国内の実践研究の多くが「モデルを適用しさえすれば成果が得られる」という単純化された図式で描かれがちであり、適用の過程で生じる授業者の葛藤や学習者のつまずきが捨象されてきたと指摘します。英語圏の質的研究も、適用時の事象を帰納的に概念化するにとどまり、事象の順序性、すなわち「いつ、何が起きて、どう対処されたのか」という過程の構造化は十分ではありませんでした。

そこで本研究は、ナラティヴ・アプローチを用いて、小学校高学年の表現運動の授業における協同学習モデルの適用過程を構造化することを目的としています。あわせて、情意・社会的領域の成果が実際に得られたのかを量的データで確認し、その実践が協同学習モデルとして適切に機能したかどうかの妥当性を検証したうえで、適用過程の検討に進むという二段構えの設計になっています。

方法

対象は愛媛県内の小学校5年生30名(男子18名、女子12名)と、教職歴20年の担任教諭です。授業者は専門雑誌への寄稿経験もあり体育授業に力を入れてきた教師ですが、協同学習モデルを意図的に用いた経験はなく、その理念や方法には馴染みがなかったといいます。調査者である第一著者は、授業計画の立案から授業後の省察までに協働的に関わり、週1〜3回程度、参与観察者として授業に入りました。

単元は2019年10〜11月のフォークダンス10時間で、素材には「互恵的な関係性」が運動そのものに内在するバンブーダンスを選び、安全性と失敗感の緩和のためにゴム製の教具「Jump Bands」を用いました。ストラクチャーとしてジグソーを2回組み込み、1回目(2〜3時間目)はステップの習得、2回目(7時間目)は「仲間」「移動」「隊形」「道具」という見せ方の4要素をエキスパート学習の対象としています。最終の10時間目にはグループごとに32拍×3の作品を発表する発表会が置かれ、5時間目にはその小さな予行としてミニ発表会が設定されました。授業内手続きは5つの構成要素に対応づけて設計され、その作成には体育科教育学の研究者2名と授業者による協議が重ねられています。

データは量と質の両面から集められました。量的データは、毎時間の形成的授業評価(長谷川ほか, 1995)、単元前後の主張性・認知的共感性尺度、学級適応感尺度です。質的データは、授業者への半構造化インタビュー(単元前、毎授業後、単元後)と、2台のカメラの映像・音声から再構成されたフィールドノーツ(計217ページ、163,384字)です。単元後のインタビューではライフライン・インタビュー法(LIM)を用い、授業者に「授業に対する手応え」の推移を1本の線で描いてもらい、その根拠を聞き取っています。

分析は、メリアムの分析的帰納法によって概念を生成し、LIMのストーリーラインに沿って概念を配列することで適用過程を可視化するという手順です。生成されたナラティヴ・ストーリーは授業者との2回の協議を経て共同生成され、メンバー・チェッキングと仲間同士の検証によって妥当性が確保されています。

結果

量的データ:この授業は「協同学習モデルとして」機能していたか

形成的授業評価は、10時間を通じて総合・成果・意欲関心・学び方・協力のすべてで高い水準を保ち、特に「協力」は3時間目以降ほぼ最高値で推移しました。単元前後の比較では、主張性と認知的共感性がいずれも有意に向上し(p<.001)、学級適応感でも被信頼感と充実感に有意な向上がみられました(居心地は当初から高く有意差なし)。著者らはこれらの結果を、本実践が協同学習モデルの実践として忠実性(fidelity)をもって機能していたことの根拠と位置づけ、そのうえで「では、その過程で何が起きていたのか」という本題に進みます。

質的データ:手応えの線が描いた3つの局面

授業者が描いた「授業に対する手応え」の線は、上昇(1〜5時間目)→下降(6・7時間目)→急上昇(8〜10時間目)という3つの局面をもっていました。各局面の概念は次のとおりです。

1〜5時間目:「不安」からのスタート、「協同学習モデルの良さ」の実感。単元開始時の授業者には【見通しを持てないことへの不安】があり、手応えは標準線より低い位置から始まります。しかし1回目のジグソーで手応えは上がります。要因は【学習課題の実態への適合】と【ジグソー法の構造的利点】でした。学習カードで示された4種のステップは難易度の面で児童の実態に合い、運動の苦手な児童がエキスパート学習で習得したステップを元のグループの仲間に懸命に伝える姿が見られました。「今回の授業の中で特に苦手な子が教えているっていうのがあったし……その子が一生懸命、自分のチームに帰って教えていたっていうところですね」という語りが、この時期の手応えを支えています。5時間目のミニ発表会で児童の作品に「グループ活動の質」「学んだ動き」「自分たちらしさ」が表れているのを見て、授業者はモデルの良さを実感するに至りました。ただし序盤にも[説明の多さ][児童間の関係性の揺らぎ][意図せざる合意形成過程]といった課題は存在しており、それらが手応えに影響しなかったのは、授業者が「見通し」を持てていたからだと後に振り返られています。

6・7時間目:手応えの低下、手探りの苦しさ。2回目のジグソーで手応えは落ち込みます。「見せ方の4つの要素を活かして動きを考える」というオープンエンドな課題に対し、授業者は【見通しを持てない中の手探り感】を抱き、「何やってるのかわからないっていうか、これはいいのかな?これはいいのかな?って」と語っています。この手探り感は【児童の課題への不適応に対する不安】を派生させました。加えて、30名を4つのエキスパート集団に分けたため1グループが7〜8名と大きくなり[グルーピングの問題]、児童はマネジメント課題(誰が提案し、誰がバンドを動かすか)に対処しきれず[児童のマネジメント課題への不適応]が生じ、活動は停滞します。授業者はその停滞に「はい、いきましょう。できるまでいこう。止まらない、止まらない」と指示を出して介入し、授業全体が慌ただしさを帯びていきました。興味深いのは、児童の感想には「自分の意見を伝えられた」「アイデアを出し合える良さがあった」といった記述が見られ、児童と授業者の実感が食い違っていたことです。

8〜10時間目:計画の調整、学びのジャンプの実感。授業者は7時間目の停滞を受けて【計画の調整】を行います。ひとつは[授業者の主導性を高める]こと、すなわち「次の5分間で、何を決めるのか」という形で決定事項を明確にし、7時間目に児童が考えたアイデアを選択肢として提示するという一時的な直接的介入です。もうひとつは[作品づくりの簡易化]で、あえて作品の拍数を延ばして余白をつくり、児童が余裕をもって工夫できるようにしました。この調整が功を奏し、児童は隊形の変化に「道具」や「移動」「仲間」の要素を組み合わせるなど、[動きの発想の創出]と[児童の協働]を伴う探索的な活動に移行します。授業者の指示による課題の明確化と児童の習熟により[児童のマネジメント課題への適合]が起こり、主導権は再び児童に委ねられ[児童の主導性の獲得]、【学習の勢いの高まり】から【学びのジャンプ】へと至りました。授業者は9時間目を「1個の分岐点というかすごく大きかった……いい意味での子どもたちの裏切りっていうんですかね」と表現しています。

考察のポイント

考察では、この3局面が先行研究とどう重なり、どう異なるのかが整理されています。まず序盤が円滑に進んだことは、Casey and Dyson(2009)やDyson et al.(2010)が単元序盤に困難を報告しているのとは異なる結果でした。著者らは、その差を学習課題の「習得難度」と「課題理解の難しさ」という2つの要素で説明します。序盤のジグソーでは到達段階が明確なクローズドな課題と学習カードが児童の実態に適合していたため、困難が生じにくかったというわけです。

7時間目の停滞については2つの要因が挙げられています。第一に、協同学習モデルに固有の学習の主導権の移行です。主導権が児童に委ねられることで、授業者も児童も不慣れな状況に置かれ、マネジメント段階の意思決定が児童に任された結果、学習は探索的になります。それを授業者が「停滞」と捉えて直接的に代替したのが7時間目の姿でした。第二に、表現運動領域に特有のオープンエンドな課題特性です。ステップの習得という到達点の明確な課題から、「動き」と「リズム」を同時に決めていかねばならない課題へ移ったことで、白水・小山(2021)のいう「課題を構成する下位課題や必要となるリソースのコントロールが難しい」状況が生じたと解釈されています。

そして8〜9時間目の計画調整は、バークレイほか(2009)が協同学習で最も重要とする「学習課題」と「手順の構造化」の再構成として読み解かれます。児童に学習課題の理解がなされていなければ、その解決に向けた手順を授業者と児童は共有できず、児童の取り組みは探索的になり、授業者からは非効率に見える。だからこそ、手順への一時的な直接的介入と課題の簡易化が、探究過程への足場掛け(scaffolding)として機能したのだと著者らは述べます。9時間目に「主体的に取り組む」「関わり合い」といった社会的領域の学習と、「動きの習熟」「動きの創作」といった体育科固有の学習が相互に関連し合いながら進行したことは、両者が切り離されがちだという現在の課題に対して、協同学習モデルが応えうることを示す例だとまとめられています。

まとめ

本研究は、協同学習モデルの適用過程が「児童の実態と課題の諸条件の適合」によって円滑に進む場合もあれば、「課題進行の難度や構造化の不足」によって停滞が生じる場合もあること、そしてその停滞は単元途中で課題構造を再構築し児童に説明し直す調整によって解決され、その後の学びの改善につながることを示しました。著者らはこの揺らぎを「常に正確に予測できるわけではない」ものとして受け止め、授業者は停滞や困難が生じることを想定して対処戦略を用意しておくこと、そして停滞を過度に否定的に捉えないことを求めています。Casey and Dyson(2009)のいう「不快さ(uncomfortable)を受け入れること」の推奨は、本研究にもそのまま当てはまるとされました。限界として、授業者と参与観察者との共同生成という手法上、学習者の立場に直接的に立ち入った調査ではないこと、単一事例であるため運動領域や対象の特性に応じた検討が必要であることが挙げられています。


著者コメント

この論文は、私自身が書いたものである。国内誌の紹介を自分の論文から始めるのは気恥ずかしくもあるが、この研究は私の研究におけるスタンスを現わしている。ずっと私は体育授業研究に携わりながら、社会世界における実践を正しく記述できていないのではないか、もっと他によい形があるはずだと課題意識を抱えていた。結果として、私は質的な体育授業研究の道を探すことになっていくのだが、国内では全く認知がなく、査読も通らないだろうと考えていた。紙幅の関係で詳述は控えるが、経験の中で様々なヒントを得ながら、ライフラインインタビュー法を駆使したり、量的なデータを混ぜながら国内の論文として認知されるように工夫しながら書きあげることができた。感慨深い論文だ。もちろん、今読んだら理論的枠組みが足りなかったり考察の論述があっちいったりこっちいったりで課題もみえるがそれでも愛すべき1本の私の主張である。だからこそ、国内誌記事の1本目として自分の言葉で位置づけておきたい。

書きながら最も強く意識していたのは、「特定の指導方法を入れれば自動的に成果が出る、あるいはその風潮を補強してしまう成果検証型研究」という図式を壊したいということだった。協同学習モデルは、5つの構成要素とストラクチャーという二層構造をもつために、たしかに再現しやすい。しかし再現しやすいということと、授業がうまくいくということは別である。本研究の授業者は、モデルを忠実に運用しながらも、7時間目に「これはいいのかな?」と手探りに陥った。つまり停滞はモデルの運用ミスではなく、モデルが正しく動いたとしても起こり得る出来事だった。主導権が児童に移れば、児童も教師も不慣れになる。その不慣れさをどう引き受けるかが、適用過程の核心である。

もう一つ、私がこの研究で得た手がかりは「見通し」という語である。序盤にも課題はあった。説明が多すぎたし、グループの関係性も揺らいでいた。それでも授業者の手応えが落ちなかったのは、見通しがあったからだ。7時間目に手応えが落ちたのは、課題が難しくなったからというより、見通しを失ったからである。ならば、教師が困難と感じるかどうかを決めているのは、児童の姿そのものではなく、児童の姿を意味づける枠組みのほうだということになる。この着想が、その後に私が取り組んだ「教師の経験」や「意味づけの生成過程」の研究へつながっていった。

現場の先生に伝えたいことはいくつかあるがその1つを紹介したい。単元の途中で授業が止まったように見えたとき、それは失敗の合図ではない。そのとき、一旦あなたの不全感を置いて子どもを見てほしい。子どもは何かをしたくて考えてるかもしれない。課題の難度を調整する、余白をつくる、課題を細分化して5分間の決定事項を明示する。本研究では、そうした小さな再構造化の後に、児童の学びは「裏切り」と授業者が呼ぶほどの飛躍を見せた。研究者に向けて言えば、単一事例の限界は承知のうえで、それでも順序性をもった過程の記述には、横断的なデータには写らないものが写るのだと考えている。そして、色んな理論的レンズでもって解釈しようとしてほしい。あなたの認識には、違った風景が広がるはずだ。

タイトルの「停滞を越えて」には三つの意味を込めている。一つは実際的な意味で、単元のなかで生じた停滞を、計画の調整によって実際に越えていったということ。もう一つは体育授業の見方としての意味で、停滞そのものを越えたところ、つまり停滞を失敗の兆候としてではなく、児童に主導権が移ったときに必ず通る局面として見る、という視点の転換である。前者がなければ論文にならないが、後者がなければ、この論文を読む意味は半分になる。そして、三つ目は、私自身が研究者としての長きにわたる停滞を越えて歩み出した1本の論文という意味である。


元論文情報

  • タイトル:小学校体育授業における協同学習モデルの適用過程:情意・社会的能力の向上を意図した高学年表現運動の実践を対象として
  • 著者:栗田昇平、大西祐司
  • 掲載誌:体育学研究、68巻、577–596頁
  • 発行年:2023年(J-STAGE早期公開 2023年10月18日)
  • 受賞:日本体育・スポーツ・健康学会 浅田学術奨励賞
  • DOI:10.5432/jjpehss.23013
  • URL:https://doi.org/10.5432/jjpehss.23013

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