思想を教えるか、選べるように導くか|’You have to find your slant, your groove:’ one physical education teacher’s efforts to employ transformative pedagogy

思想を教えるか、選べるように導くか — 変革的教育法の境界線 2015年〜2019年

「男の子が女の子のような服を着たり、マニキュアを塗ったりしてもいい、と先生が話していたと娘が言ってきた。私には理解できない」。2年生の授業のあと、一人の保護者がそう書いたメールを、教師は研究者に共有しました。教師は全米基準の該当箇所を説明し、保護者は「まだ少し混乱している」としながら「先生には先生なりの教え方があるのは明らかだ」と返しました。この論文は、社会正義を体育で教えようとする一人の小学校教師の実践を、28週間にわたって追ったものです。

イースト・ロンドン大学のShrehan Lynchとアラバマ大学のMatthew Curtner-Smithが2019年にPhysical Education and Sport Pedagogy誌に発表した論文です。米国北東部の小学校で唯一の常勤体育教師であるハリー(仮名)を対象に、Cochran-Smithの社会正義教育の6原則を枠組みとして、彼が「変革的教育法(transformative pedagogy)」をどう実践し、何がそれを促し、妨げたかをデジタル民族誌の手法で記述しています。

この記事の要点

  • ハリーの実践は、修復的実践に基づくシェア・サークルで学習者の共同体をつくり、生徒が持ち込むものからカリキュラムを組み、技能より情意領域を中心に据え、保護者や同僚の「社会正義への無知」に向き合い、Seesawなどで評価を対話の手段に変える、という五つの主題で描かれた。著者らは、社会正義を教える「最善の方法」は存在せず、教師一人ひとりが自分なりの切り口を見つけるしかない、と結論する。
  • 私は読み終えて、変革的教育法が理念なのか指導方法なのか、分からなかった。手続きが見えない。五つの主題は、ハリーという人物の描写としては生き生きしているが、他の教師が何をすればよいのかは示されていない。
  • 教育の場面で教師が政治的思想を出したらだめだ、というのが私の立場である。思想の色を教育で出してしまえば、洗脳と変わらない。必要なのは、子どもが自分で自分の色を選べるように導くことであり、この論文が「変革的」と呼ぶものの一部は、その線を越えているように私には見える。

詳しい検討は 専門家コメント に書いています。

研究の背景・目的

批判的スポーツ教育学の研究者たちは、体育が西洋文化において不平等を助長する場合があると指摘してきました。スポーツの成績を主目標とする公式・隠れカリキュラムはエリート主義的、性差別的、人種差別的、階級差別的、障害者差別的でありうるとされ、多くの体育教師はスポーツ基盤のカリキュラムと教師中心の技術指導を受け入れるよう社会化されているため、自らが不平等の拡大に寄与していることに気づいていない、と論じられてきました。これに対して提唱されてきたのが「変革的教育法(TP)」です。生徒が自身の核心的な価値観を省察し、異なる価値観を持つ人々への理解を深め、身体文化の批判的な消費者となり、誰が権力や特権を持つかを検証し、不公正を認識したら行動を起こすよう導く、という哲学的アプローチです。

体育教師によるTPの研究はごくわずかで、すべて中等学校が対象でした。本研究の目的は、ある小学校の体育教師がTPを導入しようとした取り組みを記述することです。問いは二つ。教師は生徒の信念や価値観に影響を与えるためにどのような方法・内容・組織構造を採用したか。教師がTPを導入する能力を制限したり促進したりした要因は何か。枠組みは、Cochran-Smithが示した社会正義教育(SJE)の6原則です。学習者の共同体をつくる、生徒の既知の知識を基盤に間接的で生徒中心の指導をする、既知の知識と結びつけて技能を教えギャップを埋める、生徒の文化的・社会的・歴史的背景を理解して家族や地域と協働する、標準化された階層的評価に反する多様で個別化された評価を用いる、不平等・権力・社会運動をカリキュラムの明確な構成要素にする。著者らは、文脈間で転用できる厳格なレシピやベストプラクティスは存在しない、というCochran-Smithの留保も引いています。

方法

デジタル民族誌のアプローチが採られました。主参加者ハリーは36歳の男性で、教職歴13年、エブリタウン小学校(仮名。人口1万5千人の町、児童約220名、85%が白人、17%が経済的に恵まれない層)に8年勤務する唯一の常勤体育教師です。学生時代はバスケットボールやレスリングに打ち込んだアスリートで、受けた教員養成は技術重視で批判的要素を含まず、本人はそれを「役に立たない」と評しています。白人、ユダヤ系、中流階級、社会的にリベラルと自認し、筆頭著者は以前から彼をSJEとTPに熱心な教師として知っていました。副次的参加者は校長、副校長、1年生担任、社会福祉担当官の4名です。

データは28週間、7つの手法で集められました。ハリーへの113分の正式インタビュー、副次的参加者への正式インタビュー、WhatsApp・Voxer・メールでの日々の会話、授業の短編動画15本、履歴書・教育理念・年間指導計画・111件の授業計画・評価基準・教材などの文書、ツイート3,127件・ブログ24件・Voxerグループを含むソーシャルメディア、そして電子日記です。分析は帰納的テーマ分析とCochran-Smithの枠組みによる演繹の両方で行われ、第2著者がピア・デブリーファーを務め、監査証跡、三角検証、参加者への確認、否定的事例の活用によって信頼性が確保されました。

結果

修復的実践に基づく学習者の共同体

授業の主な方法は修復的実践の原則で、「シェア・サークル」と呼ぶ円座から始まります。全員が一度ずつ話す。最後に読んだ本、一番好きな食べ物、何でもよい。ハリーはそこから「社会正義や公平性の領域へと展開できる話題を探していく。人種や性別、宗教といったテーマを、ありのままの形で掘り下げられる機会を、私は常に探している」と語ります。サークルの最後には「ハグ、ハイタッチ、握手、あるいは何もしない」を選ばせ、関係を築く。前日に友人が事故で亡くなったことを、学校の誰にも言わず彼にだけ打ち明けた生徒がいました。問題行動には「被害を認識する、被害を修復する、再発を防ぐ」の三段階で対応し、副校長は「彼が声を荒げるのを聞いたことがない」と評しています。

生徒が持ち込むものを基盤とする民主的なカリキュラム

ハリーは「生徒を『空っぽの器』として扱い、自分の知識を注ぎ込む」考え方を明確に拒みます。「私がいくつかの活動を考案する。生徒たちがそれをより良くする。生徒たちが活動を考案し、私がそれをより良くする」。5年生5人が考案した「ボイコット・ゲーム」は、前週に学んだローザ・パークスのバス・ボイコットを基にした鬼ごっこで、バスの運転手、警察官、バスに乗ろうとする人々が登場します。映像の中でハリーは「バスの中で好きな席に座れないのは公平か」と問い、生徒は一斉に「いいえ」と答えました。各学期末には「授業が彼らにとってどう感じられているか」「ハリーは君たちのことをどれくらい好きだと思うか」を尋ね、高学年が低学年を教えるプログラムも設けています。校長は彼を「まるで大きな子供」と評し、ハリー自身は「僕の教え方は、ほとんどの人には通用しないだろう。自分なりのペースやリズム、子供たちとの関係を築く独自の方法を見つけなければならない」と語ります。

技能の指導、格差の解消、情意的側面

TPを促した最大の要因は、学校で唯一の体育教師であることの自由でした。体育館は本館から離れており、「自分がやりたいことをやる自由がある」。授業計画のほぼすべてに運動技能の要素は含まれていましたが、資料と同僚のコメントからは焦点が情意領域にあることが示され、繰り返し現れる主題は信頼、マインドフルネス、スポーツマンシップ、協力、責任、友情、楽しむことでした。「生徒たちの社会的・感情的な側面を重視しなければ、肝心なことを見逃す」。年間計画にはハンドボール、クィディッチ、ラ・ガリニータ・シエガ、ペテカ、キ・オ・ラヒといった「非伝統的かつ非ヨーロッパ中心的」なゲームが並びます。社会的不公正についての明示的な指導は、シェア・サークル(「男の子がバービー人形で遊べるかどうか」)と保健の授業で行われ、授業計画には特権、差別、偏見、いじめ、ギャングによる暴力、市民権、性的指向、階級、人種、ジェンダーが年間を通じて扱われていました。「今日だけ社会正義に焦点を当て、来年までそれを忘れてしまうのは不誠実だ」。

ハリーは「政治について明確な見解」を持ち、「トランプが当選した時、有色人種の子供たちのことが本当に心配だった」と語ります。全国組織が「より多くの基準、より多くのテスト、より国家主義的なアプローチ」へ向かっていると批判し、「伝統的な北米のヨーロッパ中心主義的なスポーツというゴミとは一線を画した単元を作ってほしい」と書いています。著者らは、彼が政治的障壁の多くを回避したり無視したりできたようだ、と述べています。

社会正義への無知に向き合う地域社会との協働

最大の障壁は、同僚と保護者が形成する保守的な文化と、そこから生じる社会正義への無知でした。学校で唯一のアフリカ系アメリカ人教育者である副校長は「教職員には文化的理解力と感受性が欠けている」と語ります。ハリーが同僚に生徒の文化を教室に取り入れる重要性を説くと、「私たちのことに口出しするな」と怒りを買い、校長がそのトラブルに対処しました。冒頭のメールの後、ハリーは「境界線を曖昧にしなければならない。境界線にできるだけ近づくが、越えてはならない。計算されたリスクを冒し、あまりに過激で突飛なことはせず、ただ生徒の視点を変えるよう努める」と語り、職の安定については「経験」「専門知識」「終身在職権」があるため「私を解雇するのはほぼ不可能だ」と述べました。ソーシャルメディアでの発信とネットワークは、校長が「彼の教育活動を支えているもの」として真っ先に挙げた促進要因です。

多様な評価:Plagnets、ホワイトボード、Seesaw

ハリーはほとんどの成績評価システムを「でたらめ」と考え、評価を生徒や保護者との対話の手段にしていました。「この活動はどの程度公平だったか」という問いにマグネットで答えるPlagnets、一人一枚のホワイトボード、そしてデジタルポートフォリオのSeesaw。Seesawでは生徒がやりたいゲームを伝え、保護者が子どもの学習を「リアルタイム」で見て、ハリーと連絡を取り合う。「家族が私の授業をのぞき見できる機会を与え、そこから学びや喜びについての会話が始まることほど、力強いものはない」。

考察のポイント

著者らは、あらゆる文脈に通用する「最良の」組織構造・内容・方法は存在しないという先行研究の見解に同意し、教師は変革的実践において自分なりの「リズム」と「視点」を見出すべきだ、と結論します。そのうえで、体育カリキュラムは批判的な社会文化的視点に焦点を当て、合意形成に基づく生徒中心の教育法を取り入れるべきであり、教員養成プログラムは顕在・潜在カリキュラムに焦点を当てて教員志望者に不平等の拡大への自らの関与を自覚させることを目標とすべきだ、と提言しています。国や州の組織にはSJEの枠組み内での専門能力開発の提供を求め、今後の研究にはマイノリティ教員の変革的実践や、政治的に多様な環境での生徒の反応を挙げています。

まとめ

この論文は、一人の教師が社会正義を体育で教えようとする姿を、本人の言葉と周囲の証言で厚く描いたものです。方法として具体的なのは、シェア・サークル、生徒によるゲーム考案、非伝統的なゲームの選択、対話型の評価ツール。障壁として具体的なのは、同僚と保護者の反発。そして著者らの答えは、「最善の方法はない、自分の切り口を見つけよ」でした。


専門家コメント

まず、理念なのか方法なのか

結論の横に、私はこう書いた。「TPが理念なのか指導方法なのか分からなかった。手続きがみえない」。読み終えても、この感想は変わらない。五つの主題は、ハリーという教師の描写としてはよくできている。シェア・サークル、生徒が作るゲーム、Seesaw。どれも具体的で、明日の授業に持ち込める要素がある。だが、それらを束ねている「変革的教育法」そのものは、最後まで哲学として語られ、手続きとしては語られない。著者ら自身が、転用できるレシピはないと最初に断り、最後に「自分なりの切り口を見つけよ」と締める。研究として誠実な留保だとは思う。しかし、この論文を読んだ教師が「では自分は何をすればよいのか」と問うたとき、返ってくるのは人物像であって方法ではない。

次に、私が同意できないところ

もう一つは、より根本的な違和感である。ハリーが自身の政治的見解を語り、特定の候補の当選を機に「有色人種の子供たちのことが本当に心配だった」と述べる箇所に、私は「これはこれで極端。これ自体を判断させられるか?」と書いた。続く節、保護者の反発を扱う箇所には「教育の場面で政治的思想を出したらだめ」と書いた。そして結論には、「思想の色を教育で出してしまえば洗脳と変わらない。自分で色を選べるように導くのが必要。」と書いた。

誤解のないように言えば、私は公平性や包摂を体育で扱うことに反対しているのではない。ボイコット・ゲームを作った5年生が「バスの中で好きな席に座れないのは公平か」に「いいえ」と答える場面は、子どもが自分で判断している場面として読める。問題は、教師が自分の政治的立場を持ち込み、それを「変革」と呼ぶことにある。冒頭のメールを書いた保護者は「先生には先生なりの教え方がある」と引き下がったが、この保護者の子どもは、教師の色を選ばされたのか、自分で色を選んだのか。著者らはこの問いを立てていない。ハリー自身は「境界線にできるだけ近づくが、越えてはならない」と言う。その線をどこに引くかを本人の裁量に委ね、しかも「解雇はほぼ不可能だ」という終身在職権がそれを支えている構図は、私には変革というより、教師の側の特権に見える。

そして、それでも残るもの

それでもこの論文を紹介するのは、日本の体育にとって他人事ではない問いを含んでいるからだ。体育が不平等を助長しうるという指摘、スポーツの成績を主目標にするカリキュラムが誰を優遇し誰を排除するかという問いは、日本の運動会や体力テストにも向けられる。ハリーの実践から取り出せるのは、思想の中身ではなく、子どもの声を聞く仕組みのほうである。全員が一度ずつ話すサークル、生徒がルールを作り投票するゲーム、「この活動はどの程度公平だったか」と生徒自身に問う評価。これらは、教師が色を示さなくても、子どもが自分で色を選ぶ練習になる。変革的教育法という看板を外して読めば、この論文には使える部品がある。看板ごと持ち込むと、日本の教室では別の問題を起こすだろう。


元論文情報

  • タイトル:’You have to find your slant, your groove:’ one physical education teacher’s efforts to employ transformative pedagogy
  • 著者:Shrehan Lynch, Matthew Curtner-Smith
  • 掲載誌:Physical Education and Sport Pedagogy, 24(4), 359–372
  • 発行年:2019年(2019年3月11日オンライン公開)
  • DOI:10.1080/17408989.2019.1592146
  • URL:https://doi.org/10.1080/17408989.2019.1592146

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