教師として「生き残ること」と「育つこと」は違う|Collaborative learning in physical education teachers’ early-career professional development

協力・同僚性・協働学習の連続体。新任教員の経験は同僚性に留まった。「生き残ること」と「育つこと」は違う 2005年〜2009年

体育科の職員室は、協働学習に向いた場所に見えます。隣り合って授業をし、開放的な体育館やグラウンドで互いの授業が目に入り、授業の合間に話せる共有スペースもある。それなのに、体育科で協働的な学習が一般的とは言えないのはなぜか。この論文は、新任の体育教師が教科部門で確かに多くを学びながら、その学びが「協働学習」の基準を満たしていなかった、と結論します。

ローハンプトン大学のJeanne Keayが2006年にPhysical Education and Sport Pedagogy誌に発表した論文です。イングランドの中等学校で初任者研修を受ける新任体育教員を、質問紙から事例研究へと3段階で追った縦断研究で、文献から取り出した協働学習の四つの基準(関係性・コミットメント・文化・省察的実践)に照らして、新任教員の経験を一つずつ検証しています。

この記事の要点

  • 新任体育教員は教科部門の同僚から大量に学んでいたが、それは「質問して答えをもらう」一方向の学びであり、経験の優位が保たれたままだった。協働学習の四基準に照らすと、彼らの経験は協働(collaboration)ではなく同僚性(collegiality)にとどまっていた。
  • この論文のいちばん重要な知見は、教師として「生き残る方法を見つけること」と「専門的に育つこと」は別だ、という区別にある。指導も計画もない職場で新任は自力でやりくりし、何とかやれると分かった途端に周囲は支援をやめる。私はこれを、支援する側の動機(何のために支援するのか)の問題なのではと疑問をもった。
  • 「文脈は自然発生しない」という指摘は、日本の体育科にもそのまま当てはまる。協働学習が起きる文化は計画されなければ生まれず、校長や学科長はその境界に立つ「ブローカー」の位置にいる。同時に、日本では新任が突然担任を任される重い責任のほうが困難の源であることが多く、イングランドの徒弟的な保護とは別の現象として考える必要がある。

詳しい検討は 専門家コメント に書いています。

研究の背景・目的

専門能力開発(CPD)は専門職の実践に欠かせない要素ですが、その目的や定義は専門家の間でも混乱しています。体育教師の多くは、CPDを外部が運営する「講座」を通じて提供される教科知識の更新と捉え、日常の実践の中で生じる学びの機会を専門能力開発として認識していないことが、著者自身の先行研究でも示されていました。第2回世界体育サミット(2005)の宣言が体育教師の初任者教育と継続教育の見直しを政策上の優先事項に挙げたように、機会の改善は求められていますが、機会があるだけでは足りません。生徒の成果を変えるには教師が実践を根本から見直す必要があり、そのための有力な形態として「協働学習」が注目されてきました。

ただし著者は、協働学習が何であり、何でないかを先に確かめます。協働学習は、同僚との協力(cooperation)や共同作業と同じではありません。協力は教師が対立せずに働ける状況をつくるだけの場合があり、共に働くこと自体が学習を保証するわけでもない。Lloyd & Beard(1995)は協力を、基準が満たされれば協働(collaboration)に至る発展的スパイラルの片端に置いています。そこで著者は、文献から協働学習の経験を検証するための四つの共通特徴を取り出します。参加者の関係が監督的ではなく支援的で互いに敬意を払っていること、個人が学習と協働に意欲を持ち献身していること、活動が専門的な対話の可能な文化の中で行われ参加者がフィードバックや建設的な批判を求めていること、そして参加者が省察的実践に取り組んでいること、の四つです。本研究の目的は、キャリア初期の体育教員の専門能力開発における協働学習を、この四基準に照らして検討することです。

方法

研究は3段階で進められ、各段階が前段階のデータを使って浮かび上がった理論を探究するグラウンデッド・セオリーのアプローチが採られました。著者はこれを純粋な帰納ではなく「帰納と演繹の相互作用」と説明しています。第1段階では、英国の大学で1年間の大学院教員養成課程(PGCE)を修了した3つの連続する新任教員コホート(11名、16名、14名)が、教職1年目の最終学期に質問紙に回答し、各人の「専門的ライフヒストリー」が構築されました。第2段階は第4コホートを対象とした事例研究で、21〜29歳の8名(女性3名、男性5名)に年5回の半構造化インタビューが行われました。第3段階は教職2年目に実施され、カードチェック法を用いて、教師自身が選んだ4つの課題について、研究者の解釈を確認または否定してもらいました。分析には質的データ分析ソフトNVivoが用いられ、主要テーマとして「教科コミュニティ内での学習」が浮かび上がり、「教科は影響力のある専門能力開発の場を提供する」という理論が構築されました。

結果

理論の構成要素は三つでした。影響を与え、協働の機会を提供し、発達グループから構成される教科部門。教員による教員の育成と、目標設定・批判的省察・フィードバックの機会の創出。教科部門での勤務と、その教科コミュニティへの受け入れ。新任教員は教科コミュニティの一員となり、同僚と協力し、彼らから学びました。しかし四つの基準に照らすと、その学びは必ずしも協働的とは言えなかった、というのが結果の核心です。

関係性:学びは一方向だった

経験の異なる教員が関わる場合、新任は必然的に経験豊富な教員に行動の指針を求めます。新任教員が同僚から学ぶ過程は、ある教師が質問し、別の教師が答えを提供する活動であり、学習は一方的で、経験による優位は維持されました。著者はこれを、関係する教師の専門的成長を制限するだけでなく、現在の実践を永続させて体育教育の進展にも制約をもたらす、と評価します。新任教員は自分を教科部門の一員だと考え、同僚を専門的知識の源として重視していましたが、自分が同じ水準の貢献をするほど評価されているとは感じていませんでした。「学科長なら、よく考えてから全員の総括的な管理を行うだろう。私に任せるようなことはしない」(デイブ)。著者はこれを、Lave & Wengerの「正統的周辺参加」に近い状況と見ます。能力を証明するか受け入れられるまで、活動の周辺で参加することが許される。部門の結束は学習の文脈を提供する一方で、閉鎖性を生み、変化を阻害することもある、と指摘されます。

コミットメント:職場による差

新任教員自身は専門性を高めることに明確に献身し、協力にも意欲的でした。しかし、すべての学科がグループとしての学習にコミットしていたわけではありません。デイブの学科は基準に最も近く、チームとして課題を特定し、定期的に議論し、新しい指導法を試していました。対照的にジェームズの学校は困難な状況にあり、1年目のうちに学科が人員不足に陥りました。ジェームズは学科長から「とてつもなく多くのことを学んだ」と語りますが、それは継続的な専門的対話の成果ではなく、隣で教えている学科長がちょっとしたアドバイスをくれる、具体的な問題の解決策を探した結果でした。

教科の枠を超えた協働にも同じ構図が見られました。事例の教員のほとんどは、初任者研修で準備していない第二教科(歴史など)を教える契約を結んでおり、当初は他教科の同僚との協力を重視していました。しかし何とかやっていけるだけの知識を身につけると、すぐに自分の教科への依存に戻り、他教科の教員の側も、新任がやっていけると分かると支援への関心を失いました。どちらの側も教科横断的な協働の価値を認識していなかった、と著者は書いています。一方で、スペシャリスト・スポーツ・カレッジの地域連携やスクール・スポーツ・コーディネーターといった学校外のネットワーク、そして課外活動への広範な関与は、教員にとって明白な学習の機会になっていました。

文化:批判を避ける優しさ

協働学習には、同僚による授業参観や専門的な対話が含まれ、それには実践への批判を受け入れる文化が必要です。しかし一部の教員は同僚の実践を批判することに消極的で、経験豊富な教員が新任を観察した際にも同じ躊躇が見られました。新任は有資格者であり、批判するのは不適切だと感じていたためです。ところが、新任が求めていたのはまさに批判的な助言でした。「誰かに『素晴らしい授業だった』と言われるのは最高だ。それは良いことだけど、他にも改善すべき点があることは分かっている。私が新任だから、みんなあまり批判的になりたくないのかもしれない」(ジェーン)。フィードバックが渋られた結果、目標設定のプロセスは不備をきたしていました。教職1年目を終えると、彼らは専門能力開発を「講座」として捉え、経験豊富な同僚を「専門家」と見なす傾向をますます強め、他校訪問のような協働の機会は検討さえされなくなりました。

著者は、教員が語る「協働」の多くが、実際には学科が効果的に機能するための良好な関係、すなわち同僚性(collegiality)であったと整理します。同僚としての関係は協力と協働の連続体の中間に位置し、必ずしも専門的な学習と結びつかない。校長や学科長のリーダーシップは職場文化に肯定的にも否定的にも影響しますが、専門能力開発を促す協働的な文化と、単に同僚間の協調性を期待するだけの文化とを区別することが重要だ、というのが本研究からの示唆です。

省察的実践:弱まっていった

新任教員は養成課程で授業ごとの省察と目標設定を求められていたため、省察的実践に慣れていました。しかしそのプロセスは学校の経験豊富な教員には必ずしも馴染みがなく、年度の間に一部の新任教員が省察的態度を弱めた証拠が見られました。著者はこれを、経験豊富な同僚のやり方に倣ったためだと断じています。

考察のポイント

第一に、協働学習は単なる活動ではなく、同僚との一連の協働活動への関与を通じて得られる成果であり、しかもすべての協働活動が協働学習につながるわけではない、という区別です。教科部門は影響力のある専門能力開発の場を提供しうるが、その影響は学習を制限する方向にも働く。第二に、協働学習の機会を促進する活動・仕組み・組織は偶然には生まれず、計画されなければならない、という点です。指導や計画がなければ教師は自ら事態を処理し、生き残るためにやりくりする方法を探す。それは特定の問題の解決を促しはしても、継続的な専門能力開発を促すものではありません。第三に、協働の場には「絶え間ない緊張関係」があるという認識です。開放性と閉鎖性、対話と情報の秘匿、権力と自然な振る舞い、安定性とリスクテイク。これらは教員グループの文化や構造に影響し、下された選択によって参加者の学習を左右します。

まとめ

著者の結論は、協働学習は他の形態の専門能力開発を犠牲にする必要はなく、研修への参加も、学校に持ち帰って同僚と学びを深める行動を起こせば協働学習に転換できる、というものです。そのために教師に求められるのは、学校内外の協働学習のあらゆる機会を認識すること、適切な文化を促進・醸成すること、専門能力開発が綿密に計画されるよう確保すること、他者の貢献を尊重すること。そしてCPDの提供者にも、プログラムに協働学習の機会を積極的に組み込むことが求められる、と論文は締めくくられます。


専門家コメント

まず、協働という語の扱いについて

この論文で最初に頷いたのは、「協働学習とは何か、そして何ではないか」を先に確かめるところだった。私は余白に「どんなつながりでもいいわけではない」と書いた。同僚と仲がよいこと、共に働けること、戦略に合意すること。どれも協働学習ではない、と著者は切り分ける。そのうえで、Cordingleyらの文献レビューが挙げる成功したCPDの共通特徴を引き、四つの基準を立てる。私はこのリストに「協働が“学習”に導くための条件」と書き、確認する、とメモした。協働という語は日本の学校でも気軽に使われるが、それが学習に至る条件を並べて点検する作業は、ほとんどされていない。

ただし一つ留保がある。ここで言う協働学習(collaborative learning)は、私が研究してきた協同学習(cooperative learning)とは異なる論者の、異なる系譜の語である。著者自身も、Lloyd & Beardの「協力」から「協働」へのスパイラルを引いて両者を区別している。私は「どういう文脈で発展したのか?」と書いた。教師の職場学習を扱うこの系譜と、子どもの学習集団を扱う協同学習の系譜を、同じ「協働」の一語で束ねてしまうと、話が混線する。この記事を読む方にも、その区別は持っていてほしい。

次に、いちばん重要だと思った知見

結果の中で私が「重要な知見」と書いたのは、次の箇所である。指導や計画がない場合、教師は自ら事態を処理し、生き残るためにやりくりする方法を探す。それは特定の問題の解決を促すが、継続的な専門能力開発を促すものではない。つまり、教師としての生存方法を見つけることと、専門的な発達が促進されることは、異なる。ジェームズは学科長から「とてつもなく多くのことを学んだ」と語る。それは嘘ではない。だがその学びは、隣で教えている先輩が気づいたことを言ってくれる、という具体的な問題解決の積み重ねであり、著者の基準では協働学習ではない。生き残れたことと育ったことが混同されやすいのは、日本の初任者も同じだと思う。

もう一つ、他教科の同僚との関係についての記述には「何とかやっていけることが分かると支援をやめる」と書き、続けて「支援の動機の問題?」と書いた。支援する側は、新任が困っている間は助けるが、回り始めた途端に関心を失う。この記述を読んで、支援とは新任の困難を解消するためのものなのか、新任を育てるためのものなのか、支援する側が自分に問うたことがあるだろうか、と思った。同じ節で、学校外のネットワークや課外活動が学びの場になっていた、という記述には「自律的な活動で学ぶということ?」と書いた。支援が途切れた後に残るのは、自分で動いた場での学びである。

そして、日本の文脈に引き寄せて考えたこと

関係性の節で、著者は経験の優位が保たれた一方向の学びを、正統的周辺参加の状況として描く。私は「権威の不均衡な関係は、学びを阻害し得る」「徒弟関係で保護されることは、変化を阻害し得る」と書いた。ここまでは頷ける。だが同時に、こうも書いた。他方で日本では、新任期に突然担任を任されるといった重い責任によって困難を感じることがある。この事象はまた異なる。イングランドの新任は周辺に置かれて保護されすぎているのに対し、日本の新任は最初から中心に立たされて潰れかける。同じ「新任の専門的発達」を論じても、困難の形が逆なのだ。この論文の処方箋をそのまま日本に持ち込むと、ずれる。

もう一点、若者向けのスポーツやレクリエーションの提供者との連携を協働学習の場として挙げる箇所には、「日本の部活動の文脈とは反対に向かう知見」と書いた。イングランドでは学校外のスポーツ提供者とつながることが教師の学びを広げる方向に働くが、日本ではいま、部活動を学校の外へ出すことが議論されている。外との連携が教師の学びを広げるのか、それとも教師の関与を切り離すのか。方向が逆に見える。

文化の節では三つのことを書き込んだ。「文脈は自然発生しない」。協働学習の起きる文化は計画されなければ生まれない、という著者の指摘は、体育科の職員室が協働に向いた空間に見えるだけに重い。「批判に対する価値づけ=組織文化として」。批判を受け入れることを個人の器量ではなく組織の文化として位置づけないと、優しい同僚ほどフィードバックを渋る。そして校長や学科長について「ブローカーのポジション」と書いた。文化を肯定にも否定にも動かす人は、部門の境界に立っている。これは私が追っている越境の枠組みで言えば、ブローカーの役割そのものである。

課題を書いておく。著者が「同僚性」と「協働学習」を区別する箇所で、私は「専門的な学習の水準とは?」と書いた。同僚性は専門的な学習と結びつかない、と言われても、どの水準の変化を専門的な学習と呼ぶのかが示されていない。事例は8名、しかもコホートは同じ大学の卒業生であり、「所属する職場の当たり外れ」が結果の多くを説明してしまっている印象も残る。悪い環境だと学びが限定的、というのは、結論というより前提に近い。それでも、協働の場を「動態」として、「絶え間ない緊張関係」として捉える視点は、社会文化的な文脈が流動的であることを認めるものとして、私の研究の見方と重なる。最後の一文、CPDの提供者への要請の横には「我々、大学教員への示唆」と書いた。この論文を読む責任は、現場より先に、養成と研修を担う側にある。


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