担い手を替えただけにしないために|2026年9月前半の教育時事から論点3つ

教育時事

神戸市の全市立中学校から、学校単位の部活動が消えた。9月1日に本格始動した地域クラブ「コベカツ」の登録は1,051クラブに上る。本記事は、2026年9月の前半に本ブログで取り上げた教育ニュースを、体育科教育の論点として束ね直すものである。日々のまとめでは出来事を一件ずつ追いかけてきたが、半月分を並べ直すと、別々に見えた出来事が同じ問いへ流れていることが見えてくる。今回はその流れを三つに整理した。部活動の担い手が地域へ移るとき何が引き継がれるのか、授業時数の裁量が学校に何を要求するのか、そしてPISA2025と生成AIをめぐる議論が「学びの易化」に何を突きつけているのか、である。

論点1:部活動が地域に移るとき、担い手を替えただけにしないために

何が起きたか

神戸市は9月1日、全市立中学校で学校単位の部活動を終了し、地域の団体が運営・指導を担う「コベカツ」を本格的に開始した。登録クラブは1,051に上る(9月3日のまとめ)。国の側では、スポーツ庁・文化庁が部活動改革に155億円を概算要求し、部活動指導員1万7,320人分の配置や、小学校体育専科教員の地域クラブ活用を盛り込んでいる(9月4日のまとめ)。スポーツ庁長官は就任1年の記者懇談で、2026年度から始まった「改革実行期間」初年度の進捗に言及した。競技団体の側でも、サッカーやバスケットボールなど6団体が「BALANCE IS BETTER JAPAN」を始動させ、早期専門化と勝利至上主義に歯止めをかける方針を掲げている(9月11日のまとめ)。

体育科教育の視点から

予算が拡充されたこと自体は歓迎したい。ただ、まだ足りないというのが筆者の率直な見方である。問うべきは、この155億円が最終的に子どもたちの手に届くのかどうかだ。筆者は以前、外部指導員として学校に入っている方の話を聞いたことがあるが、待遇は最低賃金に近く、仕事の負荷は重かった。担い手が教師から地域の指導者へ移っても、条件が整わないまま任されるのであれば、負担を引き受ける人が入れ替わっただけということになりかねない。指導員1万7,320人分という数字は、その入れ替えを制度として支える気があるかどうかを測る最初の目盛りだろう。

現場の側の変化も速い。関西の地域でも、体育教師が部活動をまったく見なくなったという話を筆者は聞くようになった。負担軽減という意味では望ましい変化である。同時にこれは、体育教師の専門性がどこに置かれるのかという問いを前に押し出す。運動やスポーツの指導者としての顔が薄れたとき、残るのは教科としての体育を教える専門家という顔である。その顔が教科の位置づけを強める方向に働くのか、それとも「体育の先生も普通の教科担当になった」という理解を広げるだけなのかは、これから決まっていくのだろう。

6団体の連携は、その意味で重要な動きだと考えている。早期専門化や勝利至上主義に歯止めをかけると言うとき、では何のためのスポーツなのかという議論が要る。スポーツの本質はプレイであるはずだが、そのプレイとは何かを、筆者たちはまだ十分に語れていない。毎年の甲子園で、スタンドから声援を送る野球部員がクローズアップされ美談として語られる。彼らは野球部員でありながら、その場で野球をしていない。そしてその環境をつくっているのは大人の側である。担い手を地域に移すという作業は、この構図を組み替える機会にもなり得るが、自動的にそうなるわけではないだろう。

問い

部活動が学校の外に出たあと、子どもにとってスポーツが「みる」ものや「支える」ものに偏らず、「する」ものであり続けるために、教科としての体育は何を引き受けるのか。体育科教員としての専門性を主張するだけの気概を示さなければならない。それは私もそうである。

論点2:授業時数の裁量は、学校の「創る力」を試す

何が起きたか

次期学習指導要領の審議まとめ素案は、教科の授業時数を学校の裁量で増減できる仕組みを打ち出した。目玉は「調整授業時数制度」の創設である。義務教育段階で一部教科の時数を国の標準より減らせる仕組みで、国への申請を不要とし、上限は対象教科の標準授業時数の15%程度とする案が軸となっている(9月1日のまとめ)。生み出した時間は、別教科への上乗せ、新教科、児童生徒の実態に応じた学習、教員の研究・研修などに充てる想定である。先行するサキドリ研究校332校では、その8〜9割が裁量的な時間の活用に向かっているという(9月14日のまとめ)。内容面では「情報活用」と「合意形成」が重視される一方、評価の観点からは「学びに向かう力、人間性等」が外れる方向で調整が進んでいる。

報道が具体例として挙げた鎌倉市立腰越中学校では、50分授業を維持したまま、1・2年生の国語・社会・数学・理科・英語・保健体育から年間約8%にあたる合わせて62時間を削り、対象教科でそれぞれ月1時間程度を減らす計画だという。削減の対象に、保健体育が入っている。

体育科教育の視点から

特色ある学校づくりを進めるという点で、これは学校と教師の主体性を高めるよい取り組みだと筆者は考えている。カリキュラム・オーバーロード、すなわち学習内容が積み上がりすぎた状態への応答としても筋が通る。ただし、裁量が増えるということは、その分だけ組織と教師が自らの学びに負う責任が重くなるということでもある。時間を減らす判断も、空いた時間で何をするかの設計も、これまでのように国の標準が代わりに引き受けてはくれない。現場の学ぶ力と創る力が、そのまま問われることになるのだろう。

体育科にとっては、他人事ではない。15%という枠が動き出したとき、どの教科の時数を削るかという判断は各学校に委ねられる。体育がその調整の対象として名前が挙がる場面は、決して少なくないだろう。そのとき、体育の時間が必要である理由を、体力や健康といった一般的な言い方を超えてどれだけ具体的に語れるかが分かれ目になる。裁量の制度は、教科の存在意義を説明する言葉を各学校に要求している、と読んでおきたい。

実際、ある中学校の体育主任は、種目が多すぎるという実感を語り、なかでもダンスは削減の候補になりうるのではないかと述べていた。理由は、指導の是非ではなく、実態として十分に扱えている学校がすでに多くないから、というものだった。一つの現場の声であり、これをもって全体を語ることはできない。だが、削減の候補として名前が挙がるという事態そのものを、私は必ずしも不幸なことだとは思わない。

むしろ、それはある種の恩寵でもある。削られるかもしれないという位置に置かれてはじめて、その領域が何のためにあるのかを、再検討し、問い直さざるをえなくなるからだ。各種目・各領域が、教育的価値として何を子どもに残せるのかを、自ら努力して示さなければならない。そういう圧力としての機会が訪れた、と受け取ることもできる。時数の議論を、守るか削るかの攻防としてだけ見るなら、この機会は失われる。

評価の観点から「学びに向かう力、人間性等」が外れる方向にあることも、体育の授業づくりに影響を与えるだろう。体育では、公正や協力といった態度にあたる部分を、運動やスポーツの価値として長く扱ってきた。評価の枠組みから外れることが、それを教えなくてよいという意味なのか、評価になじまないから別の形で扱うという意味なのかは、まだ判断がつかない。ここは審議の行方を追いながら、シリーズ「学習指導要領を、一緒に読む」の側でも扱っていきたい。

問い

自校の教育課程を自分たちで組み替えられるとしたら、体育の時間をどう位置づけるのか。その判断を支える根拠を、体育科教育はどれだけ用意できているだろうか。そして、体育のなかの各領域は、そこで何を残せると言えるのか。

論点3:PISA2025と生成AI——「易化」の反作用をどこで引き受けるか

何が起きたか

OECDは9月8日にPISA2025を公表した。91か国・地域の約76万人が参加し、今回は科学が中心分野で、生徒のAI利用に関する初のデータも収集されている(9月5日のまとめ)。結果は各国で読解力の下降が目立った。米国は読解力が急落し、上位層と下位層の差は参加国中で最大となった(9月10日のまとめ)。日本でも読解力を中心に学力格差が拡大したと指摘され、SNSや生成AIの不適切な使用が背景にあると分析されている。科学の高得点層では男女差がOECD平均より大きく、科学学習の楽しさや興味も女子が低い傾向が示された(9月11日のまとめ)。並行して、ニューヨーク市は小中学校でAI学習ツールを禁止し、就学前クラスから2年生への端末配布も取りやめた。米国心理学会(APA)は「アプリへの没頭は学習ではない」として教育テクノロジー評価の10提言を示し、文部科学省はデジタル教科書の検定改善の骨子案で動画の量に上限を設ける方針を打ち出している。

体育科教育の視点から

SNSや生成AIの使用を学力低下の原因だと一律に言い切ることはできない。ただ、映像による視覚刺激は満足感が強く依存性も高いため、言語を使う力が育ちにくくなるのではないかという懸念は、筆者にも共有できるものである。PISAの結果そのものについても、冷静に受け止める態度が要る。米国の事例が示すように、PISAの順位が国の経済的な成功を予測するわけではない。科学における男女差も、適性の問題なのか、キャリアをめぐる言説の反映なのかは、仮説を立てて検証していくべき事柄だろう。

むしろ注目したいのは、ニューヨーク市の禁止措置、APAの10提言、デジタル教科書の動画量の上限が、別々の場所で同じ方向を向いていることである。いずれも、手軽さや易しさには反作用があるという認識に立っている。アプリを開いている時間の長さは学習の量ではない。学びの本質は、アプリを閉じたあとに何が残っているかの側にある。易化の先には何もない、というのが筆者の見方であり、だからこそ学び方そのものを学ぶ機会が要る。

この論点は、体育にとって思いのほか近い。負荷を引き受け、それを越えていくという経験は、体育が昔から扱ってきたものである。できなかったことができるようになる過程には、避けられない負荷がある。画面の外で身体を使って学ぶ時間が、教育課程のなかでどう位置づくのか。論点2で述べた時数の裁量とあわせて考えると、体育の時間は「削れる時間」ではなく「易化の反作用を引き受ける時間」として語り直せる余地があるだろう。

問い

手軽さの反作用を引き受ける場として、体育の授業はどのような負荷を設計できるのか。その負荷は、子どもにとって越える価値のあるものになっているだろうか。

次の半月に見ておくこと

第一に、調整授業時数制度の具体化である。上限15%という数字がどこに落ち着き、どの教科が実際に調整の対象になるのかは、審議まとめの確定を待つことになる。第二に、部活動改革の予算措置の行方である。155億円の概算要求がどこまで認められ、指導員の待遇にどう反映されるかは、担い手の入れ替えが搾取の移し替えに終わらないための分かれ目になる。第三に、PISA2025の詳細分析である。生徒のAI利用に関する初のデータが、読解力の下降とどう結びつけて論じられていくのかを追いたい。

この半月の日次まとめ

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